和也が帰った後、香苗は静かになったリビングで、物憂げに窓の外を見つめていた。
(和也……お義母さんと何かあったのかしら……)
確か名前は紗百合といったか、一応は自分とも親族関係になるが、実際は他人も同然である。
きっと、新しい家庭環境に何か問題があるのだと、香苗は薄々気づいておきながら、あまりしつこく聞いて和也に疎まれるのが怖くて、余計な口は出さないようにしてきた。
(ダメね、わたし……)
和也が自分に母性を求めているのはわかっていた。母親に甘えられずに愛情に飢えた少年が、いちばん身近な異性にその代わりを求めてしまうのは無理のないことだ。
本来であれば、亡き姉に代わって自分が甥を健全に導くべきなのに、顔も知らない女性が和也の母親になるということに嫉妬して、彼を間違った道へと誘ってしまった。
期間限定の恋人だなんて言っておきながら、いつか和也が自分から離れてしまうのを恐れているの。我ながらなんて愚かな女だろうと呆れてしまう。今だって、和也と義母の間で何があったのか、気になって胸のざわめきが止まらない。
(様子を見るだけなら……ちょっと挨拶をして、すぐに帰ればいいわよね……?)
妙な胸騒ぎがした。香苗は上着を羽織り足早に玄関へと向かう。マンションの外に出ると、すぐさまタクシーを呼び止めて乗り込み、運転手に行き先を告げた。
ドアの窓から見慣れた景色が流れていくのを眺めていると、10分と経たずにタクシーは神崎家の前に到着し、代金を払って車から降りると、人通りのない住宅地は不気味に静まり返っており、香苗は緊張しながらチャイムを鳴らす。
(そういえば、もし紗百合さんが出てきたら、何て挨拶をすればいいのかしら……)
勢いで来てしまったせいで、今更になって慌てる香苗だったが、いくら待ってもインターホンに反応はなかった。
(留守なのかしら? でも、和也はもう帰ってるはずだし……)
嫌な予感がした。そっと玄関のドアノブに手をかける。鍵は掛かっていなかった。無用心だと思いながらも、ゆっくりとドアを開けて中を覗いた香苗は、目の前の光景に愕然とした。
「なに、してるの……」
青ざめた顔をした和也は下半身を丸出しで呆けたように座り込み、その近くには見知らぬ女性が倒れていた。きっと彼女が紗百合なのだろう。
香苗はその酷い有様を見て、ここで何が行われていたかをすぐに察した。外から見られないようにドアを閉め、ともかく、身動きできないふたりをどうにかすべく、手を貸して部屋へ連れて行った。
幸い紗百合も大事なく、すぐに自分で立てるようになり、ふたりは服を着替え、今は黙り込んだまま、リビングのソファに座っている。
(まさか、こんなことになっていたなんて……)
和也は自分のしでかしたことの罪悪感に打ちひしがれ、俯いたまま顔を上げようとしない。紗百合もまた、じっと目を伏せている。
重苦しい沈黙の中、香苗は紗百合に目を向けた。
(すごく綺麗な人……これじゃあ、和也があてられちゃうのも無理ないわ)
ふたりが肉体関係にあったことを知ってショックを受けたが、義母の容姿を見て思わず納得してしまった。紗百合のどこか陰のある美貌は、同じ女の目から見ても際立っている。
最初はそれどころではなかったが、こうして、じっくりと彼女の顔を見ていたときだ。ふと、記憶の片隅に何かが引っかかった。
ただの既視感かと思ったが、記憶を遡っていくうちに、その正体に気付いた香苗は、明らかに動揺した様子で目を見開く。
「あ、あなたまさか、忠和さんの……」
香苗の驚きの声に、俯いていた和也も顔を上げる。和也には何事かわからなかったが、紗百合は違った。戸惑う香苗の言わんとすることを悟り、観念したように頷いた。
「……はい、そうです」
「やっぱり……どうしてこんな……」
側で聞いていた和也は話についていけず、ふたりの女を交互に見る。
「おばさん、どうしたの?」
「和也……」
不安げに呼びかける甥に、香苗が言うべきかを迷っていると、それよりも先に紗百合は床に膝をついて、和也に向かって深々と頭を下げたのだった。そして言う。
「申し訳ございません……わたしは和也さんのお父様と、不倫をしておりました……」
いきなり土下座をする紗百合に面食らっていた和也は、その瞬間にさまざまな思考が頭をよぎった。
「……いつから?」
「十年以上前になります……」
それはつまり、母親が病気で入院していた時も、和也がひとりぼっちでいた時も、父と紗百合は関係していたということだった。
「もうしわけ、ございません……もうしわけございません、もうしわけございません、もうしわけございません……」
額を床に押し付けて、喉から絞り出される悲痛な声。うずくまる紗百合が、なんだかとても小さくて、哀れな存在に見えた。
録音のループ再生みちあに繰り返される紗百合の謝罪が和也の耳をすり抜けていく──。
そこから、彼女はつらつらと語った。若い時分に忠和と出会い、彼が結婚しているとも知らず付き合っていていたこと。それを知った時には、既にひとつの家庭が壊れた後だったこと。
「世間知らずの小娘が熱に浮かされて……酷い男だと気づいた時には、もう何もかも手遅れで……せめて、和也さんに償いをしようと……そうでもしないと、耐えられなくて……」
紗百合の言葉に、和也は間違いなくショックを受けていた。しかしそれは、紗百合が父親と不倫していたことにではなく、和也が認識していた「紗百合」という女など、最初から存在していなかったということだった。
家政婦のように甲斐甲斐しく、娼婦のように淫らで、奴隷のように従順な義母の正体は、罪の意識に苛まれ、少年に体を捧げて償うことしかできない哀れな女だった。
そんな彼女を「感情のない雪女みたいだ」と揶揄したのは誰だろう。
そうとも知らず、彼女を好き勝手にもてあそび、悦に入っていた間抜けは誰だろう。
怒りも悲しみも通り越して、空虚な気持ちだけが少年の心を埋め尽くすのだった。
*
*
*
それからのことを僕はよく覚えていなかった。
いつの間にか家の中から紗百合さんの姿は消えていた。
僕はソファの上でうずくまり、香苗おばさんの優しい腕に抱きしめられていた。
「和也……わたしと一緒に暮らしましょう? この家は、もう無理よ……」
おばさんの言う通りだ。新しい家庭なんてのは幻想で、初めから壊れていたのだろう……なんだか全てが面倒になってきた。
そういえば、紗百合さんはどこに行ったのだろう? もうこの家には帰ってこないのだろうか?
時計を見れば、夜の十時を過ぎていた。外はもう真っ暗だ。紗百合さんはひとりで心細くないだろうか?
いや、やめよう……余計なことは考えず、このまま香苗おばさんの胸に抱かれていた方が幸せだ。
──だというのに、僕の頭からは紗百合さんのことが離れてくれない。
「ごめん、おばさん。紗百合さんを探しに行かないと……」
「……そう、和也がそう思ったなら、そうするといいわ……いってらっしゃい」
おばさんの淋しげな笑みに見送られ、僕はひとり外へ飛び出した。
──のはいいけど、僕には彼女の行きそうな場所なんて見当もつかない。
そういえば、僕は紗百合さんの好きな場所とか、好きなこととか、何ひとつ知らないんだなと、いまさら気づいた。
けっきょく、あてもなく駅の周りを探し回った後に、家からほど近い場所にある公園のベンチにぽつん座る紗百合さんの姿を見つけたときは、ガックリきたと同時に、ほっと安堵した。
行くあてもなく、冷え込む夜風に身を縮こませている紗百合さんの姿は、まるで捨てられた猫のようで──。
「紗百合さん、帰ろ」
「和也さん……」
俯いた紗百合さんに近づき呼びかけると、悲しみに染まった瞳が僕を見上げる。ずっと外にいたせいで、彼女の白い頬は寒さで赤らんでいた。
「ですが……」
「いいから、いこ」
「あっ……」
ためらう紗百合さんの手を取って強引に立たせると、僕は家に向かい歩き出す。紗百合さんは手を引かれながらヨタヨタと後ろをついてくる。
「和也さん、わたし……」
「べつに……今さら父さんが誰と不倫してたかなんてどうでもいいし。紗百合さんがいなかったとしても、どうせ、あのろくでなしは僕と母さんのことをほったらかしてただろうし。母さんが病気で死んだのは誰のせいでもないし。僕は母さんとふたりで暮らしていたとき、じゅうぶん幸せだったし……」
言いたいことを上手く伝えられず、僕は思い浮かんだ言葉をつらつらと語った。
「それに、紗百合さんはもう僕の母親になったんだから、家出なんかしちゃ駄目だよ。ちゃんと息子の側にいないと」
「……はい」
歩いていると、後ろから紗百合さんが小さく、ひっく、ひくっと、嗚咽を漏らすのが聞こえてきた。
そんな彼女の泣き声を聞きながら、僕は手を引いて歩き続ける。そして、歩きながら思った。
──人を好きになるって、なんなんだろうな……。
きっと母さんも、結婚するまでは父さんのことが好きだったのだろう。もしかしたら父さんも、昔は母さんのことを本当に愛していたのかもしれない。
──僕は紗百合さんと、香苗おばさんと、どうなりたいのだろうか……。
薄着で出てきた身体に冷たい夜風が染みる。繋いだ手だけが温かかった。