よその家というのは自分の家とは違う生活の匂いがするものだ。
この日、シングルマザーだった私は再婚によって旧姓の甘衣から、神山綾乃へと名を変え、今まで住んでいたアパートを引き払い、一人娘の由奈と共に神山家へと越してきた。
再婚相手の男性もまた一人息子を持つシングルファザーだった。父親だけでは家事まで手が回らなかったのだろう、案内されたリビングの片隅には雑誌や段ボールの束が追いやられ、急いで片付けたのが窺える。
結婚を前提にしたお付き合いを始めた頃から、夫には専業主婦として家庭に収まって欲しいとお願いされていて、私もそれを快く引き受けた。
娘はまだ小学五年生、今まで働きながらの子育てで寂しい思いをさてきてしまった。その分も含めて、これからは子供との時間を大切にしていきたい。
もちろん、それはもう一人の新しくできた息子にも────。
「今日からよろしくね、タカくん」
「はっ、はいっ、よろしくお願いします。えっと、綾乃さん……」
義理の息子となる高校生の少年、隆文くんに微笑みかけると、彼は照れ臭そうに頭を下げた。まだ、愛称で呼ばれるのが恥ずかしいのだろう。
お互いの子供を連れて初めて顔合わせをしたときから、私は彼のことを「タカくん」と呼んでいた。
まだ私のことは「お母さん」と呼んでくれないけど、いつか本当の母子のような関係になれたらと思っている。
隣にいた由奈も私にならってペコリと丁寧に頭を下げた。
「よろしくお願いします。お兄ちゃん」
「こっ、こちらこそよろしく、えっと……由奈ちゃん」
娘は同い年の子と比べても、とてもしっかりしている。あまり感情を表に出さすことがなく、ワガママも滅多に言わないし、年上の男の子が相手でも全く物怖じしない。
それに比べ、タカくんはいつも自信なさげで、今だって小学生の由奈と話すのにもオドオドしていた。
「由奈でいいです」
「え?」
「呼び方、そのほうが兄妹っぽいので」
そっけない言い方だけど、まさか、由奈の方からそんなふうに歩み寄ってくれるとは思わなかったのだろう。タカくんは面食らったように瞬きをした。
「えっと……なら、由奈も敬語じゃなくていいよ。そのほうが兄妹っぽいしさ」
「いえ、私はいいです」
「えぇ……」
流れを断ち切る由奈の返答にタカくんが閉口してしまう。
これだけ見たら二人の仲が心配になりそうだけど、母親の私はちゃんと知っている。娘は新しくできた兄のことを嫌っているわけではなく、むしろ、その逆でとても好いていることを。
マイペースな言動とぼんやりとした表情のせいでわかりづらいけれど、以前にタカくんの印象を尋ねたとき、由奈はこう答えた。
「高校生なのに小学生相手にキョドってて、すごく頼りなかった。でも……そこがイイ」と。
娘の意外な発言に私は驚いた。だって、それは私と全く同じ意見だったのだ。
初めてタカくんと出会ったとき、彼のオドオドとした眼差しを向けらた瞬間、私は胸の奥が締めつけられるような感覚に陥った。
聞けば、彼が物心つく前に実の母親は他界していて、それからは男で一つで育てられたそうだ。母親がいなかったせいで、きっと今まで寂しい思いをしてきたに違いない。
母親に甘えられず寂しい幼少期を過ごしていたタカくんを想像するだけで、たまらない愛おしさが込み上げてきた。
言葉の端々から窺える自信のなさ、緊張と不安の中に年上の女性に対する欲求が見え隠れする眼差し、私は悟った。きっと、タカくんは甘えられる相手を求めているのだ。そして、それが彼の母親になった私の役目なのだと。
娘の由奈に対する愛情とも違う、母性が疼くような感覚。まさか自分にこんな一面があるだなんて知らなかった。
自分の感情に戸惑いながらも、私は新しい息子との生活を楽しみにしていた。母親として惜しみない愛情を彼に注いであげようと。
ただ、そう思っていただけなのだ。
*
*
*
「ただいま。綾乃さん」
「おかえりなさい。タカくん」
学生服姿の息子に、はにかみながら「ただいま」を言われるのが嬉しくて、夕方、玄関の鍵が開く音がすると、私はいそいそとお出迎えをする。
新しい生活が始まってしばらく経ち、最初は母親という存在に気後れしていたタカくんも、一つ屋根の下で一緒暮らしているおかげで、だいぶ私にも慣れてくれたようだ。
「ふふっ、ママって呼んでくれてもいいのよ?」
「ちょっ、綾乃さん……!」
肩に手を置いてピタリと体を寄せると、タカくんは分かりやすく赤くなって体を硬直させる。
どうもこの子は女性と接するのが苦手なみたい。ウブな反応が可愛くて、ついつい過剰なスキンシップをしてしまう。
柔らかな感触が気になるのか、チラチラと胸元に向けられる視線を感じる。昔から胸が大きかったせいで男の目には敏感だった。それを疎ましく思うこともあったけれど、息子に見られるのは全く嫌ではない。
むしろ、母親のおっぱいが恋しいのかしらと、抱きしめてあげたくなる。こうして体をくっつけていると、息子の体温を感じて私の胸の奥に暖かいものが満ちてくる。
「あの、そんなくっつかれると……」
「いいじゃない、タカくんは私の息子なんだから」
「いや、でも……」
口ではこう言っているけど、タカくんも本心では嫌がっていない。反応の端々から本当はもっと甘えたいのが見え隠れしている。けど、まだ遠慮があるみたい。もっと打ち解けられたら素直に甘えてくれるかしら?
「お兄ちゃん、また、お母さんのおっぱいを触ってるんですか?」
「自然な感じで誤情報を捏造するのはやめてくれない!?」
せっかく息子とのスキンシップを楽しんでいたのに、いつのまにか後ろにいた由奈の言葉に驚いて、タカくんは慌てて体を離してしまった。
「そうですね。お兄ちゃんはいつも、お母さんのおっぱいを眺めてるだけですよね。訂正します」
「いや、ディテールに文句を言った訳じゃないから」
こんな兄妹のやりとりも、今ではすっかり見慣れた光景になっていた。
端から見れば仲違いしているように映るかもしれないが、由奈の遠慮ない物言いは親愛の表れであり、二人はとても仲がいい。家にいるときは一緒にいることが多いし、お風呂にだって一緒に入る。
小学五年生でお兄ちゃんとお風呂に入るのは珍しいかもしれないけれど、由奈もまだまだ子供、きっとお兄ちゃんに構って欲しいのだろう。
いっそのこと、私も一緒にお風呂に入れば、タカくんともっと仲良くなれるかしら──なんて、男子高校生のことをまだまだ子供だと軽く考えていた私は間違っていたのだろう。
そして、それを気付かされるまでに、そう時間は掛からなかった。
*
それは、ある日の夜のこと。
時刻は午前0時をまわり、子供たちは自室で寝ている頃。
夫婦の寝室に置かれたダブルベッドの隣には熟睡する夫の姿。
いつも仕事が忙しく疲れて帰ってきた夫は、食事とお風呂を済ませると、大抵はすぐに眠ってしまう。
高校生の息子がいる夫は年齢的にも性欲はあまりなく、夜の営みも少なめだった。けれど、私もべつに欲求不満というわけではないし、私たち家族を養うために毎日頑張って働いてくれている夫には感謝している。
暮らしが落ち着いたら子供をもう一人作ろうか、という話もしているが、それはもう少し先の話になりそうだ。
その日はどうにも寝付けず、私は水を飲もうと、眠っている夫を起こさないように部屋を出てキッチンに向かった。
暗い廊下を足元灯の明かりを頼りに歩いていると、階段の前を通り過ぎようとしたところで、ふと、二階から物音がするのに気付いた。
夫婦の寝室は一階、二階には子供たちの部屋がある。
タカくんが夜更かしをしているのだろうか?
高校生なら別におかしなことではないが、私はなんとなく気になって階段を登った。
子供たちの部屋は隣同士で、片方のドアの隙間から暗い廊下に白い明かりが漏れている。それは思った通りタカくんの部屋だった。
あまり口うるさいことを言うつもりはないけれど、母親として、あまり夜更かしをし過ぎないよう注意すべきかと考えたとき、部屋の中から由奈の声も聞こえてきた。
娘がよくタカくんと一緒に寝ているのは知っている。兄妹の仲がいいのは良いことだから、特に何も言わなかったけど、小学生が夜遅くまで起きているのはよろしくない。きっと二人でゲームでもしているのだろう。
早く寝なさいと注意しようとした私は、けれど、ドアをノックする直前で部屋の中から聞こえてきた、くぐもった呻き声に思わず手を止めた。
なにかしら……? いったい二人で何をしているの?
このとき、私が何も気にせずドアをノックをしていたのなら、きっと違う未来になっていたのだろう。
けれど、そのときの私はどうしてそうしたのかわからないけれど、なんとなく、そう、なんとなくだ。ノックをせず、そっと音を立てないようにドアノブを回し、細く開いた隙間から部屋の中を覗き見てしまったのだった。