王都から離れた辺境の地”ゼルトリア”
近隣は森と山に囲まれており、豊かな自然を満喫するにはもってこいの場所。逆に言えばそれ以外はなにもない田舎である。
その地を治めているのは、領主というには若さが抜けきれていない貴族の青年だった。
彼の名前はシーズ・ラングレイブ。
母親はシーズが幼いころに他界し、領主だった父も昨年に病でこの世を去ってしまい、いや応なく当主の座に就いたのだ。
幸いにして人口も少なく、歴代の領主は民を第一に考える治世を行ってきたので、住民との関係は悪くない。
シーズも幼い頃から周囲に可愛がられてきたこともあり、なんとかやってこれている。
そんな新米領主様が今なにをしているかといえば、狩りに慣れた男たちを引き連れて、森の中に潜っているところだ。
鬱蒼と草木が生い茂る獣道を枝や蔦をかき分けながら進む彼ら。
領主様がなぜそんな事をしているのか?
事の発端は、先日、住民からよせられた一件の陳情であった。
いわく、近ごろ夜になると、森から獣が出没しては農園の果実を奪っているのだという。
夜中にたまたま様子を見に行った農夫が獣の姿を目撃したらしい。
証言によれば、闇夜に浮かんでいたのは大人の背丈ほどもある巨大な獣の影。大きな耳に太く長い尻尾。暗闇には金色の瞳だけが月明かりを反射して、ぼうっと浮かんでいたらしい。
目撃した彼は、恐怖に慄いて一目散に逃げたので、被害にあったのは作物だけで済んだ。
しかし、獣に襲われる危険があっては、夜に外出するのも不安でしかたない。どうか退治してください領主様、という経緯である。
普通であれば、そんなことは猟師に任せればいいのだが、辺境の田舎領主でしかないシーズは、少ない人手を補うために自ら動かねばらならない。
とはいえ、彼が亡き父に仕込まれた狩りの腕は大したもので、森の歩き方、獲物の仕留め方は心得ており、不安はなかった。
けれど、それとは別に、シーズにはまだ腑に落ちない点が残っていた。
──農園を荒らしたのは、本当に獣だったのか?
彼は森へ入る前に、件の農園を確認したのだが、どこにも食い荒らされた形跡が見つからなかったことに、疑問を感じていた。
必要な分だけ果実を奪って逃げたのなら、それは盗人の手口である。
他の者もシーズと同意見だったようだが、目撃した農夫は、あの大き耳は間違いなく獣であったと断言したのだ。
半信半疑ながら、本当に獣の仕業であった場合や、盗人が森に潜んでいる可能性も考慮すれば、放置はできない。
シーズたちは、何かあれば呼び笛で知らせる手はずで、別れて森を捜索することにした。
濃い緑の臭いが漂う森の中を注意深く進むシーズは、休憩のため大樹の幹に寄りかかると、水筒に口を付ける。
飲み込んだ水分が乾いた喉に染み渡るのを感じながら、かすかに聞こえる鳥の鳴き声に、彼が耳を澄ませていたときだった。
近くでガサリと茂みの揺れる音がした。
音の大きさから小動物ではないと判断したシーズは、息を潜め足音を殺し、音のした方へと近づきながら、そっと茂みの奥を覗いた。
危険な大型獣と遭遇する覚悟をしていたが、そこで目撃したのは、あろうことか幼い少女の姿だった。
樹々がひしめく森の中で、ぽっかりと開けた空間には、まるで小さな舞台を照らすように、枝葉の隙間から陽光が差し込んでいる。
亜麻色の髪をした少女は、その中心に座って、ムシャムシャと何かを食べているようだ。
後ろから見ているシーズには気づいていない。
(どうしてこんな森の奥に、子供が一人で居るんだ?)
疑問に思った彼は、少女の後ろ姿に不審な点を見つけた。
なんと彼女の頭には、獣の耳が生えているではないか。
髪と同じ色をしているが、明らかに違う質感の毛に覆われた獣耳。
よく見ると、スカートからは、フサフサとした毛に覆われている長い尻尾が生えていた。
作り物でない証拠に、尻尾はパタパタと左右に動いている。
──獣人。
その存在を知識として知っていたが、シーズが獣人を直接見るのはこれが初めてだった。
彼が居る国では、それだけ稀な存在である。
さてどうしたものか、シーズは逡巡する。
獣人との接触。はたして言葉は通じるのか。
若干の不安もあったが、このまま黙っていてもラチがあかない。
「なあ、きみ」
警戒されないように、彼はやんわりと声を掛けたが、少女はビクリと体を震わせて、飛び跳ねるように振り返った。
そして、間近に迫ったシーズを目にして、まるで餌に夢中で人の接近に気付かなかった猫のようにその場で固まる。
気まずい沈黙──。
彼女が怯えているのは明らかだ。
近くで見ると、まだ母親に甘えたい年頃の、可愛らしい容姿をした女の子だった。
緊張したようにピンッと立っている獣耳を除けば、至って普通の幼子に見える。
シーズは少女の警戒心を解こうと、できるだけ柔和な笑みを浮かべ、「俺は怪しいものじゃないから──」と近づこうとする。
しかし、運悪く踏みつけた枝が、バキリと乾いた音を立てた瞬間、少女は弾かれたように飛び退くと、一目散に逃げ出した。
それは本当に小動物じみたすばしっこさで、彼女はあっという間に、シーズの前から消えてしまった。
彼は、獣人の少女が座っていた場所に、歯形のついた果実が落ちていたのを見つける。
どうやら、農園に出没した獣の正体が判明したようだ。
シーズは他の男たちと合流し、経緯を伝えると、逃げた少女の捜索を開始した。
獣人の少女がこんな森にいる理由は不明だが、あんな子供が森の中をウロチョロするのは危険だ。
耳や尻尾に驚いて、それどころではなかったが、少女の着ていた服の汚れ具合からも、まっとうな生活をしているとは考えにくい。
事態を把握するためにも、彼らは獣人少女の捕獲を試みる。
シーズは父親から仕込まれた狩りの知識と経験をもって、痕跡を追っていき、ようやく少女に追いついたとき、彼はまたもや驚かされた。
そこにはもう一人、別の獣人が居たのだ。
長く緩やかに伸びる白に近い銀髪をした女獣人が、少女を庇うように立ち塞がる。
女の頭からも、人族にはない、銀色の毛に覆われた立派な獣耳が生えていた。
さらに彼女は、服の上からでも一目でわかる豊満な胸の持ち主で、土埃に汚れた服を着ていながらも、紛う事なき美女と呼べるほど端正な顔立ちをしている。
そしてなにより、シーズを惑わせたのは、ほっそりとしした体つきに反して、形の良いたわわな乳房だった。
自己主張の激しい二つの果実が、いや応なく視界に入ってしまい、若き領主様にはいささか刺激が強すぎる。
彼女の妖艶な雰囲気に魅入られてしまったのか、シーズは胸の奥が熱くなり、下半身がムズッと疼くのを感じてしまう。
(バカか俺は! こんな状況でなにを考えてるんだ……)
女性経験の乏しいシーズだったが、いままでどんな女性を前にしても、ここまで露骨に反応したことがなかったので、自分でも戸惑ってしまう。
煩悩を振り払うように深く息を吐いてから、今は現状を把握することが最優先だと自分に言い聞かせ、シーズは目の前の二人を注視する。
彼女たちは姉妹なのだろうか。怯える少女を抱きしめる獣人の女からは、攻撃の意思は感じられない。
気丈に振舞っているように見えるが、その瞳には恐怖が滲んでいた。目の前にいる男が、自分たちにどんな仕打ちをするのか想像しているのだろう。
「お願いいたします……私はどうなろうとも構いません……どうか、どうか娘だけは見逃してください!」
獣人の女が懇願する。
シーズはまず、彼女の話す言葉が共通の言語であったこと、そして姉ではなく母親だったことに驚いた。
獣人の女は腕の中で怯える少女を抱きしめながら、注意深く彼を正視している。
「キミたちに危害を加えるつもりはない。だから落ち着いて、話を聞いてほしい」
シーズは彼女たちを刺激しないよう、その場から動かずに声をかける。
しかし、彼の言葉を鵜呑みにしてくれるほど、獣人の女は不用意ではない。いまだ険しい顔つきのままだ。
彼女たちの汚れた身なりから、ここに来るまで、大変な思いをしてきたのは容易にうかがえる。
獣人と人族の関係は微妙なものだ。大昔には戦をした歴史もあり、今でこそ争ってはいないが、貿易商ならともかく、一般人では交流もまずない。
シーズも今日、初めて獣人を目の当たりにして驚いた。獣人というぐらいなのだから、肌は毛むくじゃらだと思っていたが、実際はつるりとしており、顔の造りや体型も、ほとんど自分たちと変わりなかった。
しかし、あるべき箇所に耳はなく、そのかわり大きな獣耳が頭の上に生えているし、スカートからは、フサフサと毛に覆われた尻尾が揺れていた。
それだけで、自分たちと違う存在なのだと、まざまざと認識させられる。この国では異端として恐怖を抱く者もいるだろう。
まだ若く実直な性格をしたシーズでは、彼女たちに同情を禁じえない。
「俺はこの地の領主だ。きみたちの力になれるかもしれない。だから話を聞かせてくれないか?」
そう言いながらシーズが掲げた手には、家督とともに受け継いだ当主の証とされる指輪が嵌められていた。精緻な細工が施された指輪の先端には、泉のように深い青色をした宝石が輝いている。
「領主様──あなたが?」
彼女の呟やきには、驚きとは別の、隠しきれない疑念が含まれていた。
自分がまだ未熟な若造であることを自覚しているシーズにとって、それは耳の痛い言葉だった。
「確かに俺はまだ、領主になりたての若輩だけど、断じて嘘ではないし、きみたちを放っておけないと思ったのも本当だ。それに──」
シーズは、いまだ母親の腕の中から、怯えた眼差しを自分へ向けている少女を見つめる。栄養不足のせいか、その手足はずいぶんと細くなっていた。
「このまま森に居続けていては、その子が辛いだろう?」
子供を引き合いに出された獣人の女は、彼の真意を見定めるように、金色の瞳で凝視する。
やがて彼女は静かに頷いた。
「かしこまりました……あなた様のおっしゃる通りにいたします」
シーズは荒事を避けられたことに安堵しつつ、彼女たちを連れて森から出ることにした。
その途中で手分けをしていた男たちと合流したが、獣人の彼女たちを目にして、やはり彼らも驚きを隠せずにいた。
道すがら彼女たちの名前を尋ねると、母親は”アルテラ”、娘が”ミリア”というらしい。
二人とも足取りは軽く、怪我や病の心配はなさそうだった。
獣人の少女ミリアは、自分と母親の周りを囲むように歩いているシーズたちが怖いのか、アルテラの腰にひっつきながら、恐るおそる彼らを見上げている。
シーズといえば、彼女たちのフサフサとした獣耳と尻尾が気になって、ついつい見つめてしまうせいで、はたから見れば、女の尻を凝視するスケベ野郎であった。
ちょうど振り向いたミリアと目が合ったので、にっこり笑ってみたけれど、少女は慌てて目をそらしてしまい、彼は少し傷ついた。
街へ戻った一行は、住民を驚かせないように、彼女たちには頭の耳と尻尾を隠してもらい、人目を避けるようにしてシーズが屋敷へ連れて帰った。