貴族の屋敷といっても、田舎領主の邸宅なんて豪奢には程遠い。
平民の家と比べれば、確かに大きく立派ではあるが、館の中には煌びやかな調度品などなく、家具も古くから使い込まれているものばかりだ。
しかし、館の掃除は完璧にゆき届いており、年季を感じさせるマホガニーの家具は丁重に磨かれ、艶やかな光沢を放っている。
ちなみに、ラングレイブ家の屋敷に住んでいるのは、シーズを含めて三人しかいない。
使用人兼補佐役として、シーズの世話をしている老婆のマーサと、庭の手入れや屋敷の修繕など雑務をおこなっている老人のドイル。
二人とも先々代の頃よりこの地で仕えており、シーズにとっては家族も同然であった。
屋敷に着いて早々に、彼らは玄関でマーサに出迎えられる。
老婆は眉間にシワの寄った、いかにも几帳面そうな顔から、鋭い目つきをもって、シーズの連れてきた獣人の母娘を見据えていた。
その眼差しには、獣人に対する驚きや興味などなく、この屋敷に招き入れてもよい人物かを見定める瞳であった。
老齢でひょろりとした体つきだが、背筋は常にピンと伸ばされており、その立ち姿からは彼女の厳格さが滲み出ている。
「坊ちゃんにも困ったものですね」
マーサはため息をついて、きびすを返す。
「そんな汚れた格好で、屋敷を歩き回られてはかないません。二人ともこちらへいらっしゃい」
そう言って、マーサは萎縮するアルテラたちを浴室へと連れて行った。
「マーサは呆れてたかな?」
残されたシーズは、ちょうど部屋の修繕に居合わせたドイル老へ意見を求めた。
「ほっほっ、若は昔から、なにかと森で拾い物をしてきましたが、まさか獣人を拾ってこられるとは驚きですわい」
その割にはのんびりとした口調でドイルが笑う。
「ドイルは獣人を見たことがあるのか?」
「まあ、随分と昔のことですがね。しかし獣人がこの国で暮らすなんて普通ではありえませんで、なにかよほどの事情があるのは確かでしょう」
「事情──か」
それはきっと厄介ごとに違いないだろうが、とりあえず、あの二人に話を聞かなければ始まらない。
アルテラたちの案内から戻ってきたマーサに、シーズは彼女らを含めた食事の支度を頼んだ。
しばらくすると、獣人母娘が入浴から戻ってきたのだが、その光景を目にして、シーズはポカンとした顔でその場に立ちつくした。
森の中で出会ったときから彼女のことを美しいと思っていたシーズだが、野外で付いた汚れを落として本来の姿に戻ったアルテラの美貌といったら、「綺麗」のひとことでは言い表せないほどだった。
柔らかく波打つ銀髪は艶やかな光沢を放ち、肌はきめ細かくシミひとつない。
ほっそりとして整った顔だちに、伏し目がちな瞳を覆う長い睫毛は、儚い美しさを湛えていた。
汚れた服も着替え、今は簡素だが清潔なブラウスを身にまとっており、それゆえに彼女自身の美しさが際立っていた。
服の下から主張する大きな胸。細い腰。まあるく突き出したヒップへと描かれる曲線からはスタイルの良さがうかがえる。
それになにより、人族にはありえない、美しい銀色の毛並みをした獣耳は、彼女を物語に出てくる幻想的な存在のように思わせた。
絶世の美女という言葉が、これほど似合う女性をシーズは見たことがなく、ただただ見惚れてしまう。
「坊ちゃん、いつまでそうしているのです?」
「あ──いや、すまない」
「あなたたちも、特別に食堂を使用してよろしい。坊ちゃんに感謝なさい」
「はい、ご慈悲に感謝いたします。領主様」
「ありがとございます。りょーしゅ様」
深々とお辞儀をするアルテラにならって、ミリアもおずおずと頭をさげた。
食堂に行くと、テーブルには既に人数分の食事が用意され、料理からは食欲をそそる香りが暖かい湯気とともに立ちのぼっていた。
そこまで広いともいえないテーブルだが、シーズが一人で食事をするには広すぎる。
マーサやドイルにも一緒に食事をとることを勧めたが、謹んでお断りされた。
いくら身内のようであろうとも、主人と使用人の関係を崩すのはよろしくないということだ。
だからこうして人と向かい合って食事をとるのは久しぶりだった。
マーサの給仕により料理がテーブルに並べられる。
アルテラの隣に座っているミリアは本当に食べていいのか心配した様子で、視線は眼前の料理とシーズの顔を交互に移動している。
「遠慮せず食べるといい」
館の主人から許しを得て、ミリアはもういちど確認するように母親を見上げる。
アルテラが頷くことで、ようやくミリアはスプーンを手にすると、慎重にスープをすくって口に運ぶ。
口の中に温かなスープが流れ込むと、少女は感激に目を大きく見開きながら、もうひとすくい口に運ぶ。
満足に食べられない日々が続いていたのだろう。遠慮しがちだったその手はもう我慢できないといったように、少女は一心不乱に料理をほおばった。
シーズからは見えなかったが、スカートからはみ出しているミリアの尻尾は喜びを示すように大きく振れていた。
「慌てなくてもだいじょうぶよ。ゆっくりお食べなさい」
アルテラに口元を拭かれながら、それでもミリアは手を休めることなく食べ続けた。
ここに来るまで、少女にとってはあまりにも過酷な日々を過ごしてきたのだろう。今はそれを咎めるものは誰もいなかった。
娘の様子を見ながら、アルテラもゆっくりと自分の食事を摂り始める。
彼女の柔らかそうな唇にスプーンの先端が潜り込み、音を立てずにスープが口内に吸い込まれていく。
口の中の液体は嚥下され、彼女の喉が小さくコクリと動く。
ただ食事をしているだけの仕草は、上品で妙に艶かしく、シーズは思わず見入ってしまう。
シーズの視線に気づいたアルテラは、少し恥ずかしそうにはにかんだ。
「とても美味しゅうございます。領主様」
「そっ、そうか、たくさん食べるといい」
シーズは見とれていたのを誤魔化すようにパンをちぎってほおばった。
それにしてもと、シーズはパンを噛みながら、向かいに座っている二人を見比べるが、親子というより、歳の離れた姉妹のほうがしっくりくる。
それほどまでに、アルテラは美貌は際だっていた。
それからは、当たり障りのない言葉を交わしつつ、ひとまず食事を終えたところで、シーズは改めてアルテラに事情を尋ねた。
二人はどこから来たのか、なぜあんな森の中に居たのか。
アルテラはシーズの質問にひとつずつ答えていった。
聞けばアルテラたちが生まれ暮らしていたのは、やはりここから遠く離れた獣人の住まう国であったが、とある事情から故郷にいられなくなり、娘を連れて二人きりでこちらの国へと渡ってきた。
しかし、この国の人間は、獣人との交流が殆どなく、どこからか流れ着いてきた獣人の母娘は奇異の目で見られてしまい、まともな働き口など見つけることもできない。ともすれば迫害の対象にもなったり、彼女たちを捕まえようとする輩もいた。
耳と尻尾を隠しながら、どうにか人の目が少ないこの地にたどり着き、森の中に隠れ住んでいたものの、自給自足もままならず、ましてや、まだ小さい娘を養うのは難しく、娘を飢えさせないために、夜中に町の果樹園に忍び込んで果実をいくつか拝借したところを見つかってしまったのだ。
それが件の獣騒ぎであり、農夫は暗闇の中で、彼女の耳と尻尾、そして獣人特有の夜を見通す瞳の瞬きを、獣と見間違えてしまったのだろう。
アルテラの説明を全て聞き終えてから、シーズは、なぜアルテラたちが国を追い出されてしまったのかを尋ねたが、彼女は言い淀んだすえ、口をつぐんでしまった。
なにか悪事を働いて追放されたのではないかと、マーサか鋭く問いただすと、アルテラはかぶりをふった。
「いいえ、私はそのようなこと……本当です。誓って悪事などはたらいておりません」
「でしたら、なにがあったのか、きちんと説明なさい」
「それは……」
アルテラはそれいじょう喋ることができず、ただ悲しげに目を伏せた。
ミリアも不安気に母親の横に抱きついていた。
「まってくれマーサ、そんな尋問するような言い方は……」
「坊ちゃん。甘いだけの人間に領主は務まりませんよ」
老婆の諫言にシーズは言葉に詰まる。
マーサは使用人ではあるが、彼が幼い頃から、教育係として容赦なく叱りつけてくる存在だったため、シーズはいまだにこの老婆に頭が上がらない。
「けど、二人とも疲れが溜まっているだろうし、この話は明日にしよう。それでいいだろ?」
シーズの反論にマーサはやれやれと溜息をつくが、どうやら了承されたらしい。
シーズはマーサに頼んで二人を空いている使用人部屋へと案内させた。