一夜明けて朝日が高く登った頃に、シーズは昨日言った通りにアルテラとミリアを連れて屋敷を出た。
ミリアは興味津々といった様子で外の景色を眺めており、アルテラは娘が好奇心に引かれてどこかに行かないよう手を繋いで歩いていた。
そして、まず最初に向かったのは、シーズと彼女たちが出会うきっかけとなった農園だった。
ちょうど収穫作業をしていたようで、農園の主人である日に焼けた恰幅のよい中年男性と、その傍にはどっしりとした体格の奥さんが、せっせと動いていた。
シーズが夫妻に獣人の母娘を紹介してから、アルテラは頭を下げ、改めて先日のことを謝罪した。ミリアも母を真似をしながらぺこりと頭をさげる。
アルテラは非難され罵声を浴びせられる覚悟もしていたのだが、農園の主人は苦笑いをしながら薄くなった頭を撫でつけた。
「いやぁ、おっかない獣かと思ったら、こんなべっぴんさんだったとは驚きですわい!」
「ほんとだよ、なのにあんたったら酷く怯えちまって、恥ずかしいねぇまったく! ほらっ、デレデレしなさんな!」
アルテラの美貌に当てられ照れ笑いをする主人の丸い腹を、奥さんの逞しい腕が小突く。
「まぁ……あんたさん方も大変な目に遭ってきたんだろう。シーズ様に拾われて良かったなぁ」
主人はうんうんと頷き、近くの樹から赤い実をひとつもぎ取ってミリアに手渡した。
「もらっていいのぉ?」
差し出された果実を、おずおずと受け取るミリア。
「お嬢ちゃん、うちの果実は美味かっただろう?」
「うんっ、おいしかった」
ミリアの素直な返事に主人は満足そうに頷いているが、アルテラは戸惑いの表情を浮かべた。
盗みを働いたことを罰せられるはずなのに、なぜこのような温情を向けられているのか解せない様子だ。
「あのっ、そんな……いただくわけには」
慌ててミリアが手にした果実を返そうとするアルテラだったが、おかみはカラカラと笑う。
「いいのいいの、うちには売るほどあるんだから、一個や二個ぐらいどうってことないわよ。それに……」
彼女はアルテラに近寄ると、喜ぶミリアの相手をしているシーズに視線を向けながら、小声で囁く。
「お代はもう、シーズ様から受け取ってるわ」
「えっ……?」
「だからさ、あんたも大変だろうけど、頑張りなさいな」
彼女は気前よく笑いながら、激励するように厚い手の平でパンパンとアルテラの背中を豪快に叩いた。
「きゃっ!?」
アルテラは背中に伝わる衝撃におもわず尻尾を逆立てながらも、キョトンとした様子でシーズを見つめる。
「さて、それじゃあ次へ行こうか」
そんなやり取りに気づかなかったシーズは、夫婦に挨拶をして別れると、二人を連れて町を回り歩いた。
屋敷で料理に使う材料を仕入れている店では、これから彼女が世話になるからと顔を見せ、教会では神父から彼女たちへの祝福を賜り、広場で催されていた人形劇にミリアが喜び、通りを歩けば住民は親しげにシーズに挨拶をする。
そうして町を回っているあいだ、獣人であるアルテラたちは当然だが人目を引いた。
その中には、物珍しさに指をさす者もいれば、こわごわと遠巻きに様子をうかがっている者もいた。
しかし、アルテラが恐れていたような、迫害を受けるようなことは一度として起こらなかった。
領主様が近くにいたからというのもあるだろうが、それにしてもだ。
農園の夫婦もそうだったが、なぜこの町の住民はこんなにも獣人に対して友好的なのかと、アルテラは疑問を感じた。
そうこうしているうちに、彼女たちは町をぐるりと回って広場に戻ってきた。
小さな町でもそれなりに時間が経っていた。
人形劇が終わって、集まっていた子供もいなくなった広場は閑散としている。
真上にあった太陽は傾き始め、気だるい午後の空気が辺りに流れていた。
「歩きっぱなしで疲れただろう? 飲み物でも買ってくるから、二人はちょっと休んでいてくれ」
「旦那様、それでしたら私が……」
「すぐ戻ってくるよ」
そう言って、シーズは近くの露店に歩いて行ってしまった。
うららかな日差しに包まれた広場は、遠くに聞こえる町の喧騒をよそに、静かな時を刻んでいる。
広場の椅子で日向ぼっこをしていた老婆が、ミリアにキャンディーを渡しているのを見て、アルテラは思わず声をかけた。
「ここの人たちは、獣人を見ても驚かれないのですね?」
「いんやぁ、みんなびっくりしてますよぉ。あなたがたのような人は初めてですからねぇ」
老婆はシワまみれの柔和な笑顔をアルテラに向け、のんびりとした口調で答える。
「そうなのですか? とてもそうは見えなかったので……」
「シーズ様がねぇ」
「え?」
「シーズ様が皆んなに言いなさったんですよぉ。獣のお耳が生えた人が町に住むけど、怖がらないで仲良くしてほしいって」
そこでアルテラは、昨日シーズが外で何をしていたのか気づいた。
「日が暮れるまで、ずぅっと、町を走り回っておりましたねぇ」
老婆は思い出すように空を見上げた。
「この町に住んでる人は皆んな、代々の領主様に良くしていただいておりましたから、シーズ様にお願いされたら、お助けしたいと思いますもの」
「そう……なの、ですか」
ニコニコと微笑む老婆とは対照的に、アルテラは困惑しながら曖昧な返事をした。
領主とはいえ人生経験も乏しく、女性に対する免疫もないから、誘惑すればあっさりとほだされてしまう若者。それがアルテラの目に映るシーズであったのだが。
(もしかしたら、あの人は……)
アルテラは考えようとした事を頭の中から消し去った。なぜならそれは、彼女が捨てたものだったから――。
遠くには、露店で買った飲み物を抱えてたシーズの姿が見える。
憂いを帯びていたアルテラの顔は、すでにいつも通りの綺麗な笑みが上塗りなされていた。
*
シーズたちが屋敷への帰路へとついた頃には、町が茜色の夕日に照らされ、並んで歩く三人の影が仲良く地面へ伸びていた。
獣人という存在を町の人々に知ってもらうのが目的の外出は、概ね成功したといってもよいだろう。
すぐにとはいかないだろうけど、アルテラたちが町に馴染んでいくことを期待しながら、シーズは隣を歩く獣人母娘に目を向けた。
夕日に照らされたアルテラの美しい横顔が目に入る。
(やっぱり美人だよなぁ……)
視線に気づいたアルテラは、やんわりと微笑むとシーズの手を握った。しなやかな指が手に絡められると、それだけで心が高鳴ってしまう。
アルテラとの情事にばかり気が取られてしまうシーズだったが、こうして穏やかな時間を彼女と過ごすことも存外に幸福を感じていた。
胸の疼きは、まだ恋や愛と呼べるほど確かな感情ではなく、年上の美女に対する憧憬に近いものだったが、それでもシーズは今の気持ちを伝えようとアルテラの手を握り返した。
ふと、反対側でアルテラと手を繋いでいるミリアが、歩きながらコクリコクリと頭を揺らしているのに気づく。
「ミリア、眠いのか?」
「うう……んっ、だいじょーぶ……です」
シーズが声をかけると、ミリアは今にも寝入ってしまいそうな様子で返事をする。よほど外出が嬉しかったのだろう、そのせいで少しはしゃぎ過ぎたようだ。
「ほら、おいで」
「んぅ……にゅ……」
フラフラとした足取りのミリアをシーズが抱き上げる。
「旦那様、私が抱きますので……」
「これぐらい大丈夫だよ、君も疲れただろう?」
「ですが……」
シーズの腕に抱かれながら、ミリアはすぐに寝息を立て始めた。その表情は安らぎに満ちており、娘の幸せそうな寝顔にアルテラも起こすのを躊躇われた。
「さっ、帰ろうか」
「……はい、旦那様」
そうして二人は寄り添うように、夕日に照らされながら歩いていった。