シーズがヴィクタール家に泊まった翌朝、シーズは屋敷での朝食を済ませると、まだ日の高いうちにドミニクに見送られながら屋敷を後にした。
ドミニクにはもっと滞在するよう勧められたが、アルテラやミリアの事も気になったので早めに発つことにしたのだが、昨日は夜遅くまで指輪をめぐって騒いでいたせいか若干寝不足気味だ。
マリーレイアも朝から部屋に篭ったまま、屋敷を発つ前にシーズが声を掛けたが返事もなかった。そのときは、きっとまだ眠っているのだろうと思い、しょうがないので、無理に起こさず書き置きだけ残してきた。
幼馴染に別れの挨拶ができず、シーズは少し寂しくも思ったが、また会いに来ればいいさと諦める。
それからシーズは帰りの馬車に乗る前に、せっかく賑やかな街にきたのだから、屋敷で待っているアルテラたちに何か土産を買って帰ろうと市場を巡っていた。
さすがは大勢の人が訪れる街だけあり、出店の数や種類もかなりのものだ。
シーズが店頭に並べられている装飾品からアルテラやミリアに似合いそうなものを見繕っていると、緊張を含んだざわめきが聞こえてくる。
何事かと様子を窺ってみると、市場の通りに人だかりが出来ており、その中心には対峙するような形で向き合っている二人の姿。
片方はいかにもな街のゴロツキという風体をした上背のある角刈りの男。もう一人は外套のフードを目深に被っており、顔はよく見えないが一見すると旅人のような出で立ちをしていた。
「おいてめえ、人にぶつかっておいて詫びもねえのか!」
「謝罪ならしたはずだが?」
怒気を含んだ男の罵声。しかし旅人は動じる様子もなく答える。
「そんなもんで済むわけねえだろうが、誠意を見せろや!」
それはなんとも古典的な恐喝の手口であった。どうやら旅行者を狙って難癖をつけ金品を巻き上げようという魂胆なのだろう。
警備隊に知らせるべきかとシーズが逡巡しているうちに、先に動いた男の腕が旅人の胸ぐらに向かって伸ばされる。
しかし、旅人は軽い身のこなしでヒラリと身を躱した躱し、男の手は空を掴むだけとなったが、その拍子に旅人の被っていたフードが脱げた。
フードの下から現れた旅人の素顔によって、またも周囲がざわめき立つ。
褐色の肌、緩やかに波打つ暗い紫色の髪を肩まで伸ばし、涼しげな瞳をした女の顔はかなりの美女である。
しかし、中身が美女だったことよりも人々を驚かせたのは、彼女の頭に生えている獣耳が原因だった。
アルテラと似ているが、目の前にいる女獣人の獣耳は猫のように先端が尖った形で艶のある黒い毛並みをしている。
女獣人は周囲の騒めきなど気にもとめず、静かに鋭い瞳で相手の男を見据えている。その様はまるで熟練の狩人のようだ。
「あぁっ? なんで獣人なんぞがこの街にいやがる?」
「お前に教える義理はないな」
小馬鹿にしたような女獣人の口ぶりに、男は額に青筋を立てると、怒り任せに近くに置かれていた木箱を蹴り飛ばした。
中に入っていた果物が地面にばら撒かれ店主が悲鳴をあげる。
「畜生風情が偉そうな口きいてんじゃねえよ!」
女獣人の冷ややかな目つきがよほど気に障ったのか、男は侮蔑を込めて吠えた。
それが引き金だった。きっとアルテラたちと関わっていなければ傍観者となっていただろう。
気がつけば、シーズは女獣人を背にして、二人の間に割って入るような形で立っていた。
突然の闖入者に、男だけではなく女獣人も怪訝な顔をする。
「なんだてめえっ、こいつの知り合いか?」
「いや、そうじゃないけどさ。もうこの辺にしとかないか? 周りの人にも迷惑が掛かってるし、そのうち警備隊もやってくるぞ」
相手をなだめようと声をかけるも、ならず者が大人しく言うことを聞くわけがない。それはシーズもわかっていた。
「いきなりしゃしゃり出て、なに勝手なこと抜かしてんだこのガキが! てめえもブッ飛ばされてえのか!」
「それは……困るかな」
顔に痣などこさえて帰れば、マーサになんと言われるか分かったものではない。
シーズの間抜けな返答も相手の怒りを掻き立てるには十分だった。男の硬く握られた拳が振り上げられ、顔めがけて飛んでくる。
それを受け止めようとシーズが身構えたそのときだった。後ろにいた女獣人がするりと横を駆け抜けるや、まるで疾風のような速さで男との間合いを詰める。
そして、流れるような動きで男の手首を捻じり上げると、僅かな動きによって重心をずらされた男の体が宙に浮き、そのまま地面に叩きつけられた。
あっという間の立ち回りに、騒いでいた野次馬もおもわず言葉を失い場が静まり返る。
一瞬の静寂を打ち破ったのは騒ぎに駆けつけた警備隊だった。
その中にいた隊長格らしき武骨そうな顔の男が地面に伸びているゴロツキと女獣人に目を向ける。
「騒ぎを起こしたのはお前たちか!」
警備隊は彼女が獣人だと気づいて、警戒しながらにじりよる。
「事情を聞きたい。詰所までご同行願おうか」
「ちっ……」
女獣人は面倒くさそうに舌打ちをすると、その場から逃げ出そうとするが、その前にシーズが彼女の腕を掴んだ。
「おいっ、放せ!」
「ここで逃げても君が困るだけだ。俺が事情を説明するからちょっと待ってくれ」
シーズの言葉に、腕を振り払おうとした女獣人も不承不承といった様子でその場にとどまる。
「彼女はそこの男に絡まれていただけだ。先に手を出してきたのも向こうだった。これは間違いなく正当防衛だ」
弁明するシーズを訝しげに見ていた警備隊員だったが、何かに気づいのか、その表情がふと緩んだ。
「あなたは……たしかラングレイブ家のご当主では?」
昔から何度もこの街に立ち寄っていたおかげで、どうやらシーズの顔は警備隊に覚えられていたようだ。
「シーズ・ラングレイブだ。彼女の潔白は俺が保証する。手荒な真似はやめてもらいたい」
警備隊員はシーズと女獣人を見比べてから、なるほどと頷いた。
「貴族様に言われては、こちらも信じないわけにはいきませんな」
いささか納得しがたい様子ではあるが、そこはシーズの顔を立てての判断ということだろう。
「ありがとう。助かるよ」
「いえ、それでは私どもはあの男を連れていきますので、これにて」
まだ起き上がれずに道端で呻いているゴロツキが、警備隊によって連行される。
「貴様も、これ以上街で問題を起こすなよ」
最後に女獣人に向かってそれだけ言うと警備隊は去っていった。
彼女はつまらなさそうに鼻を鳴らし、シーズの手を振り払おうとする。
「おい、いつまで掴んでるつもりだ」
「ああ、すまない」
シーズは改めて女獣人の容姿に目を向ける。歳は彼よりも少し上だろうか、ピンと立った獣耳や意志の強そうなつり目からクールな印象を受ける。アルテラとは違ったタイプの美人だった。
彼女はフードをかぶり直して獣耳を隠すと、シーズにジロリとした視線を向ける。
「お前、この国の貴族か?」
「まあね」
「そうは見えないな」
「よく言われるよ」
「ふんっ」
それ以上は興味を示す様子もなく、彼女はその場を離れようとする。
「ちょっとまった」
「なんだっ! まだ何かあるのか?」
鬱陶しそうにイラついた声を出しながら女獣人が振り返る。
「迷惑をかけた店へ謝りに行こう」
「はぁ?」
目を丸くする彼女を引き連れて、シーズはさきほど男に木箱の中身をぶちまけられた店へ向かうと、店主に幾許かの貨幣を渡して、それらを買い取った。
彼女もしょうがなく「悪かったな」と謝罪した。店主もまさか弁償してくれるとは思ってなかったようで、シーズに何度も頭を下げていた。
「お人よしだな、お前」
「そうかい?」
カゴいっぱいの果実を片手に抱えながら歩くシーズに、女獣人は変なものでも見るかのような目を向ける。
「お前みたいな甘ちゃんは、悪人に付け込まれて痛い目を見るのがオチだ」
「そうかもな」
マーサにも似たようなことで苦言を呈されたことがあったのでシーズは耳が痛かった。
「人間のくせに、どうして獣人を助ける」
「獣人だって、人間だろ?」
「ふんっ、詭弁だな」
「難しいよなぁ、色々とさ」
そう言いながらシーズはカゴから果実をひとつ取ると、彼女にひょいと投げ渡してから、自らもひとつ手に取って、そのまま噛り付いた。甘い酸味の果汁が口いっぱいに広がる。
「うん、美味い」
女獣人は手にした果実に顔を近づけると、スンスンと匂いを嗅ぎ分けるように鼻をひくつかせてから、がぶりと噛り付いた。彼女の口に立派な犬歯が生えているのが見えた。
「君は、どうしてこの国に?」
「お前に話す義理はない」
むしゃむしゃと果実を食べながら、女獣人はふいっとそっぽを向く。
「ははっ、そうだな」
そこで道が二手に分かれた。互いの足が向く方向も違う。どうやら連れ合うのはここまでらしい。
「それじゃあ、道中気をつけて」
別れの挨拶をして、シーズは女獣人に背を向ける。
「――探しものをしている」
後ろから呟くような声が聞こえてシーズが振り返ると、やはり彼女はそっぽを向いていた。
「そうか、見つかるといいな」
「ふんっ」
「ゼルトリアに立ち寄ったときは我が家を訪ねてくれ、歓迎するよ。俺の名前は……」
「シーズ・ラングレイブだろ、さっき聞いた」
シーズは彼女からの言葉を待ったが、彼女はそれ以上は何も言わずに背を向けた。
しかし、彼がその背中を見送っていると、彼女は立ち止まって顔だけ後ろに向ける。
「アリューシャだ。じゃあな人間」
ぶっきらぼうに言い放つと、彼女はまた前を向いて歩いてゆく。
そうして獣人の女、アリューシャは去っていった。
シーズもまた、自らの帰る場所へ向かうため、足を踏み出したのだった。