背筋にヒヤリとしたものが走る。
驚きに心臓が跳ね上がるのと同時に、身体も飛び起きた。
顔を上げたシーズの目には、朝陽がまるで後光のように背中で輝いているアルテラの姿が映っている。
彼女はいつも通り、慈愛に満ちた柔和な微笑みをシーズに向けている。それはまるで愛の女神のようであり、
(こわっ!?)
シーズは恐れ慄いた。
「おはようございます。旦那様」
アルテラは笑みを崩さぬまま口を開く。
「おっ、はよう……アルテラ」
引きつった笑顔で返事をするシーズは、彼女の瞳がちらりと動いたのに気づく。
アルテラの視線は、いまだにシーズの横で寝息を立てる全裸のマリーレイアに向けられていた。
「こっ、これはっ、なんというか……」
「おはようございます、マリーレイア様。朝でございますよ」
慌てるシーズをよそに、アルテラはマリーレイアに近づくと、子供を起こす母親のように優しく声をかける。
「んっ……むぅっ、あさぁ……? ふぁあぁ〜ぁっ」
のそりと体を起こしたマリーレイアは、まる出しの乳房を隠そうともせず、大きなあくびをしながら、ぐうっと体を伸ばす。
その弾みで形の良い美乳がプルンと揺れるけど、今のシーズに見とれている余裕はない。
「んんっ、よく寝た……おはよう、アルテラさん」
「はい、おはようございます。朝食の用意ができておりますわ」
「ああ、でも、その前に身体を流してくるよ。なんか股がゴワゴワする」
マリーレイアのとんでも発言にシーズが青ざめる。
「それがよろしいかと」
素っ裸でベッドから這い出るマリーレイアに、アルテラがローブを羽織らせる。
彼女たちはいつもと変わらぬ自然な表情をしており、それだけ見ると、まるで日常の一コマを切り取ったように和やかだ。
アルテラの顔からは、怒りや嫉妬なんて微塵も読み取れない、しかし、それが逆に恐ろしい。
(なんだこれ……こわっ)
言いようのない寒気を感じて身震いするシーズをよそに、マリーレイアはさっさと部屋を出て行ってしまったので、部屋には二人だけが取り残される。
「お洗濯……しなければいけませんね」
「洗濯?」
なんのことだろうか?
疑問に思ったシーズがアルテラの視線の先を見ると、そこには昨夜の状況証拠といわんばかりに、白いシーツに付着している赤いシミがはっきりと残っていた。
「………………」
シーズはもはや何も喋ることができなかった。
*
それからの時間は、まるで拷問だ。
朝食をとるために出向いた食堂では、テーブルを挟んで向かい合ったマリーレイアが何食わぬ顔で食事をしており、シーズの後ろには無言でアルテラが控えている。
誰も一言も喋らないせいで、食器の音だけが静かな食堂に響く。
何か気の利いた話題を振って場を和ませたいところだが、ここで下手な事を言ったら余計に立場が悪くなる気がして、シーズは味の感じられないパンをもそもそと咀嚼していた。
(アルテラもそうだが、マリーは昨日のことをどう思ってるんだ……?)
今も何食わぬ顔をして食事をしている幼馴染は、果たして心の中では何を考えているのか。
幼い頃から親友として仲良くしてきた少女と一線を越えてしまったのだ、今まで通りの友人関係でいられるはずがない。
しかも恩義のある大商会の一人娘に手を出したのだ。常識的に考えれば男として責任を取らねばならないだろう。
シーズは首が絞め上げらているような気分になり、パンの切れ端を飲み込むのもままならずに、もごもごと口を動かし続けていた。
そして、朝食を済ませた後も、彼女たちの様子が気になって、執務に集中することができず時間だけが過ぎていく。
(これはいかん……早くなんとかしなければ…)
このまま生殺しのような状態を続けるよりは、一思いに処されたほうがまだマシだ。
シーズは執務室を抜け出すと、アルテラに見つからぬよう、こそこそとマリーレイアの部屋に向かう。
屋敷の主人だというのに、この上なく情けない姿である。
部屋に到着すると、ノックしたドアからマリーレイアの返事が聞こえ、中に招かれる。
「やっ、やあ、マリー」
部屋では、マリーレイアが備え付けられた机で、なにやら分厚い書物をめくっていた。きっと実家から持ってきた学術書か何かだろう。
「んー、なんかようかー?」
顔は本に向けたまま、気だるそうに返事をする様子は、やはり今までと変わらない。
「いや、なんというか……あのまま寝てしまったせいで、ちゃんと話をしてなかったなと……」
「なんの話だ?」
「だから、昨日の夜のことで……」
「あぁ、そのことか」
「酔った勢いで、なんて言うつもりはない。こうなったからには、俺も男として責任を取ってキミと……」
「あー、そういうのは面倒だからイイや」
「…………」
一世一代の決意を表明しようとしたのに、それを事も無げに捨て置かれたシーズは、口を開いた間抜け顔でその場に硬直した。
「私とお前が恋人になるとか、なんかキモチ悪いしなぁ」
次いで、ケラケラと笑いながら喋る幼馴染の言葉に、脳天をガツンと殴られる。
(キモっ!? えっ、なんだこれ、俺……フラれた?)
昨夜、ベッドの上で愛くるしい姿を見せてくれた、可愛いマリーレイアはどこに消えてしまったのか。
あのときは、あんなにも自分を求めてくれたというのに。
目の前にいるのは、今までと何も変わらぬ傍若無人な幼馴染だった。
酷いギャップに狼狽するシーズを無視してマリーレイアは言葉を続ける。
「なんかなぁ、お前とセックスしたことは覚えてるんだけど、酔っ払ってたせいか、どうもおぼろげなんだよなぁ」
「つまり……酒の勢いでヤッちゃったけど、俺の事が好きというわけではないと?」
「いや、友達としては好きなんだけど、なんていうの? お前ってイイ人止まりというか……」
「おいヤメろっ! 無闇に俺の心を傷つけるな!」
悪意がないというのが逆にタチが悪い。言葉のナイフがシーズの心にグサッと突き刺さる。
「あっ、でもセックスは結構キモチ良かったぞ、お前、なかなかイイもん持ってるなっ!」
親指を立ててニカッと笑うマリーレイアに、気力を根こそぎ奪われたシーズは、「あ、そうですか……」とだけ答えると、それ以上話すこともできず、フラフラとおぼつかない足取りで部屋を出て行くのだった。