商人と一悶着があった翌日、書庫を訪れたシーズは、いまでは書庫の主となっているマリーレイアにその経緯を話した。
「と、いうことがあってさ」
「ははっ、私の知らないところで、そんな面白そうなことが起こってたのかぁ」
「いや、全く面白くないから……」
行儀悪くスカートで足を組みながら椅子に座り、愉快そうに笑うマリーレイア。
書庫には置いてなかったはずの机と椅子がいつのまにか運び込まれていた。おそらくまたドイル老に無理言って手伝わせたのだろう。
机の上には広げられた書物が散乱しており、壁には何やら書きなぐったメモが貼り付けられ、いつの間にかこの場所はマリーレイアの研究室と化しているのだが、彼女の奔放な行動にいちいち文句を言っても疲れるだけなので黙認されている。
「相手の様子が明らかにおかしかったんだよ、まるで正気を失っていたみたいで」
あのとき、アルテラに掴み掛かろうとした商人は、シーズに止められるまで自分が何をしていたのか理解しておらず、まるで夢遊病者のようだった。
「ふむ、損得勘定で動く商人が、女の色香に釣られて領主に喧嘩を売るというのは不自然な気もするが……どっかの領主様も似たようなもんだしなぁ」
マリーレイアにジト目で見られたシーズは、心外そうに首を振った。
「いやいやいや、俺はいつだって正気だぞ」
「……本当にそうか?」
「えっ」
彼女の重く静かな口調に、シーズは思わず口ごもる。
実際、アルテラを前にして理性的な振る舞いができなくなってしまうのは、シーズにも自覚がある。
森の中でアルテラと出会ったあの瞬間から、シーズはもう彼女を放っておくことができなかったのだ。彼女の色香に惑わされていると言われても反論できない。
「うーん、そう言われると……いや、しかし……」
自分も同じ穴のムジナだということにショックを受けるシーズに、マリーレイアはやれやれと嘆息する。
「ほら、私は調べ物で忙しいんだ。こんなところで唸ってないで部屋に戻って自分の仕事でもしてろ」
「なんだよ、いつもは人の邪魔ばかりするくせに」
「あん?」
「いえ、なんでもないです……」
マリーレイアに睨まれて、シーズはすごすごと書庫から出て行った。
「さて……と」
また一人きりになった彼女は読みかけの書物に視線を戻す。
マリーレイアがこの書庫で文献の調査を始めてからしばらく経つが、結論から言えば、ここは貴重な文献の宝庫であった。
文字の種類や劣化具合と記述内容から、この土地を人族が統治する以前に獣人によって書き記された書物だと分かる。
それこそ、アカデミーの学者連中が知れば騒ぎになる代物だ。
ラングレイブ家がどういう経緯でこれらの文献を保管していたのかは不明だが、現当主であるシーズはこの書庫について何も知らなかった。おそらく父親である先代もそうだったのだろう。
(それが逆に幸運だったのかもな)
大昔の戦で獣人と人族が争った際には、異種族の文献は異端扱いされその多くが焼却されてしまっている。だからこそ、この国で発見される獣人の書物は貴重なのだ。
マリーレイアはこれからの獣人が遺した文献から、彼女の胸に掛けられた宝石、おそらく儀式的な意味合いを持つ装飾品なのだろうソレに関する手がかりを探していた。
そして文献を漁っていくうち、獣人に伝わる古い伝承の中に”石”にまつわる二つの文献を発見した。
一つは、絵画と象形文字で構成された絵巻で、おそらく獣人が信仰する神に関する物語なのだろう、神らしき存在から石のようなモノを賜る様子が描かれているのだが、所々に劣化が激しく、その文字は残念ながらマリーレイアにも解読不可能だった。
しかし、もう一つの伝承が記録された書物は比較的新しく、保存状態もよかったおかげで解読もだいぶ進んでいる。
そこに書き記されていたのは、毒を撒き散らし人々を苦しめる魔獣を輝石の力を使ってその中に封印するという内容の伝承であった。
この物語で登場する魔獣を封印した”輝石”というのは身の丈ほどの大きさがあり”月のごとき輝き”と記述されている。
彼女のもつ石は指に収まるサイズなのだが”月のような輝き”という描写に、以前にシーズと見た発光現象を連想できる。
しかし残念ながら、その発現条件も未だ不明のままだ。
夜になると光るのかとも考えたが、そう都合良くはいってくれなかった。
そして、その日も彼女は太陽が沈み外が暗くなっていることにも気づかず研究に没頭していた。
机に置かれたランプの周りだけが明るく照らされた書庫は静寂に包まれ、めくれたページが擦れる乾いた音だけが聞こえる。
そのときのマリーレイアは集中するあまり気づいていなかった。背後の暗闇から自分に向かって伸ばされた白い手を。
彼女の華奢な肩にヒタリと触れる何者かの手。
「ッ……!?」
冷たい感触にマリーレイアが驚いて振り向くと、そこには銀のトレイを手に持ったアルテラが立っていた。
「申し訳ありません……お声はかけたのですが……」
「あっ、ああ、すまない……集中すると周りが見えなくなるんだ」
「旦那様からお夜食をお届けするよう仰せつかって参りました」
芳しい香りにつられて腹の虫が騒ぎ出したマリーレイアは作業の手を止め、ありがたく差し入れを受け取った。
彼女はアルテラを怪しんでいるものの、だからと言って嫌っているということもなく、女二人は衝突はしないものの、今も微妙な関係を保ったままである。
「ずいぶん熱心に本を読まれているのですね?」
「ああ、君たち獣人の言い伝えや神について調べている」
「神……ですか」
「なにか面白い話しを知っていたら教えてほしいね」
「申し訳ありませんが、そういったことには疎くて……ですが、獣人の神は今晩のような満月の日に地上に降り立ったとされていますね」
「へぇ、それじゃあ、アルテラも夜に祈りを捧げるわけだ?」
「いえ……私はもう信仰心を捨てました……神に祈ったところで救われることはないのですから……」
アルテラにしては珍しく感情が透けて見える言葉に、マリーレイアもキョトンとする。
「申し訳ありません……余計なことを言いました」
「べつに私はいいと思うけどね、人生は自分の手で掴み取ってなんぼさ」
「マリー様のそういうところ、素敵だと思いますわ」
「バカにしてるだろ」
「いえ、本当に羨ましい……」
最後にそう言い残して、アルテラは書庫から去って行った。
空腹が満たされたマリーレイアは、今日のところは作業を止めて部屋に戻ることにした。
眠る前の気晴らしにと、中庭に出た彼女は、夜空に浮かぶ月を仰ぎ見ながら大きく背を伸ばした。
雲ひとつない夜空には、アルテラの言っていた通り、青白く光る満月が浮かんでいた。
そしてマリーレイアは、胸元の石が淡く光っていることに気づいたのだった。