叔父夫婦が営む宿は、夜になると安酒を求めてやってくるオヤジ共の溜まり場となっている。
女給として店の手伝いをするスフィアナは、品のない笑い声とジョッキが乱暴にテーブルを叩く音の響く店内を澄ました顔で行き来する。
家庭が崩壊するまでは箱入り娘として育った彼女が低俗な大人がたむろする酒場の光景を初めて目にしたときは、まるで獣の巣窟に踏み入れてしまったような気分だったが、今やこの喧騒にも慣れたものだ。
器用に両手で皿とジョッキを持ちながら「おまたせしました」と、注文の料理を運んできたスフィアナに一人の酔っ払いが声をかける。
「なぁお嬢ちゃん、こっちに座ってお酌してくれよ」
アルコールで顔を赤くしたオヤジがスフィアナのお尻で揺れる尻尾に手を伸ばしたが、彼女も酔っ払いの相手には慣れたもので、ヒラリと躱して作り笑顔を浮かべると、「ごめんなさい、さぼってると女将さんに怒られちゃうの」と軽くあしらい、さっさと店の奥にひっこんだ。
(もう、お酒臭いったら)
慣れない接客をやらされた当初は客に絡まれるたびイチイチ相手をしていたけれど、酔っ払いの相手ほど無駄なことはないと悟った今ではこの通りである。
「なんだいスフィアナ、せいぜい酔っ払いどもにおべっか使ってチップの一枚でも稼げばいいじゃないのさ」
逃げ込んだ厨房では、料理を作っていた叔母がいつもどおり嫌味を言ってくる。
(あんな呑んだくれの相手なんて、冗談じゃないわ)
下手に男と関わればロクなことにならないのは分かりきっていた。
父親や神父を狂わせ、今も叔父を虜にする彼女は、自分が男を惑わす存在だということを自覚している。容姿が優れているからというだけでは説明できないナニかを秘めているのだと。
それに気づいてからというもの、スフィアナは不用意に男に近づくことを避けながら生活をしていた。人目を引く綺麗な髪は頭の後ろでまとめ、獣耳ごと頭巾の中にすっぽりと隠して、できるだけ目立たないようにしている。
宿を手伝うときも、なるべく客とは距離を置いて立ち回っているのだが、こんな掃き溜めの中にあっては、いくら隠そうとしても男に絡まれてしまい、それがまた叔母には面白くないのだ。
叔母に反論するのもバカらしく、ため息をつきながら流し台に溜まっていた洗い物に手をつけるスフィアナは、冷たい水に手を濡らしながら、早く大人になりたいと心の中で呟いた。
このまま叔父夫婦の元で暮らし続ければ、きっと自分はみすぼらしく人生をすり減らしながら生きていくことになるだろう。周りの大人に振り回されるしかない子供だから不幸から抜け出せないのだ。
そのときのためにも、今のうちから資金を蓄えておかねばならない。けれど、いくら宿の手伝いをしたところでロクに駄賃も貰えやしない。客からチップを貰うこともあるが、こんな場末の宿で燻っているような連中から貰える額なんて子供の小遣いのようなものだ。かといって、別の働き口があるわけでもない。
多少は成長したとはいえ、未だ子供の枠を抜けられないスフィアナが、まっとうな方法で稼ぐなど土台無理な話であった。
結局、スフィアナに切れる手札など一つしかないのだ。
*
夕刻を告げる鐘の音が街に響き渡る。
この時間帯になると、街の大通りには仕事が終わって家路につく者や、これから一杯引っ掛けにいこうとする者が次々と通り過ぎる。
叔母から客引きを言いつけられたスフィアナは、いつもと同じ通りの端から人々の流れる様子をじっと見つめていた。
無闇やたらと声をかければいいというわけではない。スフィアナが必要とする条件の揃った相手を選ばねば意味がないのだ。
そして彼女は人ごみの中に周囲を見回しながら歩く男を見つけた。
長いコートを身に纏い背には大きな荷物、ツバ付きの帽子をかぶり、がっしりとした顔つきで口には綺麗に整えられたひげをたくわえた、いかにも旅人といった装いの中年男だ。
ターゲットに狙いを定めたスフィアナは、頭を隠していた頭巾を脱ぎ捨てると髪を結っていた紐を解く。
背中に流れる夕日で輝く銀髪を指で梳いて整えると、スフィアナは軽やかな足取りで目的の男に近づき声を掛ける。
「ねぇ、おじ様、今夜の宿はお決まりかしら?」
突然声をかけられた男は、まず目に入った彼女の薄汚れた服装に眉をひそめたが、スフィアナの顔を見た途端に頬を緩ませた。
一見すると貧民の少女だが、よくよく見れば髪は白銀のように艶やかな光沢を放ち(それが自分の武器だと知っているスフィアナは髪の手入れを毎晩欠かさない)、その金色の瞳には子供らしからぬ品性を宿しており、まるで高価なドールがボロを着せられているようなチグハグさに男は興味を引かれていた。
「ああ、そうなんだ。お嬢さん、どこかいい宿は知っているかい?」
「でしたら、うちにいらしてくださいな、小さくてちょっと古い宿ですが、掃除は行き届いて清潔ですわ」
金を持ってそうな旅人は当然良い宿に泊まりたいと思うだろう、少なくとも叔父夫婦の宿は彼に釣り合わないだろう。しかし、それじゃあスフィアナも困るのだ。
「お願いよおじ様、お客さんを連れていかないと女将さんに怒られてしまうの。とっても恐いのよ、私の手をパチンと叩くの」
スフィアナは甘えるように男のゴツゴツとして大きな手を握ると手の甲を撫で付けながら身を寄せる。
「それは、困ったな……」
断りたいところだが、可愛らしく懐いてくる子猫を邪険にすることができない男に、いっそう甘えた声を出して懇願するスフィアナの瞳が一瞬妖しい暗紫色に光る。
「うちに泊まってくれたら、わたし、頑張ってご奉仕するわ、だから、ねぇおじ様、お願いよ」
「ああ……そうだな、そうしようか」
力なく男が頷くと、スフィアナは喜んで男のお腹に抱きついて頬をすりよせる。
「うれしいわ、優しいおじ様! さあ、こちらにいらして、宿にご案内しますわ」
こうして狙った客を捕まえることに成功したスフィアナは、男の手を引いて宿へと連れ帰るのだった。