(最悪だわ……)
彼女にしては珍しく嫌悪感を丸出しにしながら、スフィアナは眼前にそびえる建物を見上げていた。
古めかしく厳かな雰囲気を放つそれは、女神の信徒が集う修道院である。
年季を感じる門構、その奥に広がる修道院を眺めるスフィアナの顔には疲弊が色濃く浮かんでいた。
女の妬みによって男に輪姦された、あの忌まわしい事件から既に二年の歳月が経過していた。
悪い噂が広まってしまったこともあるが、加害者の死因に疑惑の目を向けていたアリューシャに事の真相を暴かれるのを恐れたというのが街を離れた一番の理由だった。
もっとも、スフィアナの力は常識で測れるものではなく、彼女自身もその可能性は限りなく低いと思っている。
そうして、別の街へと移り住んだスフィアナ。それで全て解決したかといえば、残念ながらそう上手くはいってくれなかった。
次の街でも男にまとわりつかれ、女には妬まれ、それがキッカケで問題が起こり、結局はまた街を出ていくハメになり、またその先でも──。
そんなことが繰り返されたせいで、叔父夫婦の元で暮らしていたとき、男に体を売ってまでして稼いだ皮袋一杯の金もすっかり減ってしまい、残り僅かになっていた。
このままいけば行き倒れてしまう。もちろん、スフィアナがその気になれば男を篭絡して金を稼ぐなど容易いことだ。
もしもスフィアナが私利私欲のために躊躇いなく男を利用できる女であれば、これほど生きづらいこともなかだったろう。
けれど彼女はそれを望まなかった。たとえ意のままに男を操れたとしても、忌々しいと思っている男がいなければ成り立たない人生など御免なのだ。
多くを望むつもりはなく、ただ平穏に暮らしたいだけだというのに、どこに行けども発情した男と嫉妬する女に邪魔される。
スフィアナの心はもう限界だった。
叔父夫婦の元を離れ新たな人生を歩もうと、胸を躍らせ力強く踏み出したはずの足は、まるで沼地に踏み入れてしまったかのように、一歩進むごとに、ズブリ、ズブリ、と沈んでいく。
まとわりつく泥のせいで足は重くなり、もう、どうすればいいのか分からなかった。
そうして、行くあてもなくトボトボと歩いていた彼女は、いつのまにか修道院の前に立ち尽くしていたのだった。
(なんでこんなところに来てしまったのかしら……まさか神に救いでも求めているの?)
スフィアナは自嘲気味に自らに問いかけた。
今でも時折、神父との忌々しい過去を思い出しては虫唾が走るというのに、そんな自分がまさか神に縋るなど冗談ではなかった。
(ありえないわ……)
これはきっと、精神的に弱っているせいで起こした気の迷いに違いない。そう結論付けて引き返そうとしたときだ。
「貴女、なにかご用かしら?」
しわがれた、けれど柔和な声が彼女に語りかけてきた。
見れば、門の側には修道服に身を包んだ小柄な老婆が立っており、スフィアナの悲壮を察したのか、彼女に近づいてきた。
面倒なのに見つかったと、スフィアナは心の中で舌打ちをする。
「いえ、通りすがっただけですから……」
関わり合いになるまいと、そっけなく言ってその場を離れようとしたスフィアナだったが、その手を老婆が掴んで引き留めた。
「あの……放してもらえますか」
「あなた、なにかお困りなんでしょう?」
ニッコリと微笑む老婆の問いかけにスフィアナは頬を引きつらせる。
「いえ、違いますから……」
「あなた、酷い顔をしているわ。さあ、中に入りなさい、温かいものを飲ませてあげましょう」
「いえ、結構ですから」
老婆の痩せた手など振り払おうと思えば簡単なはずなのに、笑顔の圧が強いせいでたじろいでしまう。
「だから……」
何度断ろうとも笑顔を崩さずグイグイと迫る老婆に根負けて、気がつけばスフィアナは修道院内の一室に連れ込まれ、湯気の立つお茶をちびちびと飲みながら、要所をぼかしながらも男によって人生が狂わされたことを喋らされていた。
(私、なんでこんな話をしてるのかしら……)
おっとりしてるくせになんて強引な婆さんだと舌を巻く。
彼女の話を聞いた老婆は、なるほど、と相槌を打ちながらスフィアナの顔を見て一言。
「確かに、あなたって幸薄そうな顔しているわ」
「くッ……!」
今のスフィアナには、とても刺さる一言だった。ズケズケとものを言う婆さんに、さしものスフィアナも穏やかではいられず、カップをテーブルに置いて立ち上がる。
「帰ります。お茶、ごちそうさまでした」
「おまちなさい。あなた、いく当てがないのでしょう?」
「余計なお世話ですわ」
「女子修道院でなら男性に関わることもないし、その綺麗すぎる顔を隠して生活することもできますよ。そうね、顔には酷い傷があることにしましょうか」
「私に修道女になれと? 冗談でしょう、私に信仰心なんてないわ」
「それは、おいおいでいいわ」
「おいおいって……」
「おためしで入ってみるのも、いいんじゃないかしら?」
「おためしって……」
修道院というのは規律に厳格な者の集まりだと思っていたスフィアナは、この老婆はきっと、ろくな信仰心もなく住居目当てに修道女になった類に違いないと思った。
「ちなみに私は、ここで女子修道院長を務めています」
院長だった。
*
(どうしてこんなことに……)
礼拝堂に集まった修道女たちが女神への祈りを捧げる中に混ざって、修道服に身を包み顔も隠したスフィアナは形だけの祈りを捧げながら、心の中でため息をついた。
気がつけば、なんやかんやで修道女にされていた。
そして腹が立つことに、修道院の生活がスフィアナにとって意外な程に快適であった。
今でこそ、性格はだいぶ擦れてしまったものの、元から勤勉で器量もよい彼女は、厳しい規律も与えられる仕事も苦にはならなかった。
それでも、毎日課される礼拝の時間だけは虫唾が走る気分で、賛美歌を歌うときなんかは、どうせ顔を隠してるのだから分かりやしないだろうと、こっそり口パクもするが──。
「スフィアナ、声が出ていませんよ」
「ひぅっ!」
院長に尻をペシリと叩かれたりもする。どうにもこの老婆は苦手であった。
とはいえ、女から目の敵にされることが多かったスフィアナが他の修道女とはそれなりに上手くやれていたのは幸運であった。
修道院の女たちには、入院せざるを得ない事情を抱えた者も多く、不用意に他人を詮索するような真似は避けられていたお陰だろう。
もっとも、いくら顔を隠しているとはいえ、一緒に生活をしていればうっかり素顔を見られてしまうこともある。
女だけの閉鎖的な空間でスフィアナの美しい顔を見てしまったせいで、名状しがたい気持ちを抱いてしまった修道女もいたのだが──とりあえずは、大きな問題が起こることもなく、修道院に守られながらの暮らしは彼女の望んでいた平穏と言って差し支えないものであった。
そうして、スフィアナの傷ついた心は、少しずつ癒されていった。
*
季節は巡り、彼女の修道女姿も板についてきた頃のことだ。
日課の礼拝が終わったとき、スフィアナは老婆院長から呼び止められた。なんでも、司祭様からお話があるということらしい。
嫌な予感がした。日常に陰りが差す兆候のようなものを感じた。
そして、院長に連れられて司祭の部屋を訪れると、そこで彼女はこう告げられた。
「さる高貴なお方が、おまえのことを見染めたのだ」と。
奉仕活動で外に出ていたスフィアナの素顔を偶然にも見てしまい、一目惚れしたから妾にしたい、すぐにでも迎え入れたいとのことだ。
冗談ではないと、スフィアナは断った。院長もスフィアナを擁護してくれた。
けれど、司祭は気まずそうに咳払いをする。
「修道院が財政難なのは知っているだろう? そのお方は、おまえを迎えることができれば、多額の寄付をしてくださると仰っている……これは、おまえがこの修道院に恩返しをする絶好の機会なのだよ。わかるかね?」
司祭が何を言いたいのか、スフィアナは十分に理解した。つまり、自分を金と引き換えに売り飛ばそうというのだ。その寄付金とやらは一体いくらが司祭の懐に入るのだろうか。
(男という生き物はどこまで醜悪なのかしら……)
院長は反対してくれたが、司祭の権力に敵うはずもなく、いくらスフィアナが拒んだところで、たかが修道女には何もできないのが実情だ。司祭が指示すればスフィアナはあっけなく修道院から放り出されてしまうだろう。
出来ることといえば、妾なぞ御免だと修道院から逃げ出すぐらいだが──。
「わかりました司祭様。そのお話、お受けしますわ」
スフィアナは承諾した。ここで自分が逃げれば院長が責任を負わされてしまうかもしれないし、それに、この修道院に世話になったのも確かだ、寄付によって少しは恩返しもできるだろうと思ったのだ。
彼女の返答に、司祭も満足げに頷く。
「院長、いままでお世話になりました、どうか長生きしてくださいね」
スフィアナは顔隠しを取ってから、老婆の痩せた手を握って感謝を口にする。そして、司祭に向かって微笑みながら一言。
「くたばれクソ野郎」
と言い放ち、呆気に取られる司祭を置いて部屋を出て行った。
そして彼女は、さる高貴なお方とやらの妾になるため、その日のうちに馬車に乗せられ修道院を後にしたのだった。
*
余談だが、この司祭は暫くのちに朝食のパンを喉に詰まらせてくたばったらしい。それが彼女の力によるものなのかは不明である。