さて、ミリアが産まれたことでスフィアナの意識は大きく変化した。
これまでも生きるために男を利用することはあったが、自分のために他者を陥れるというのは彼女本来の性質ではなく、必要以上を望むことはなかった。
しかし、今は違う。何をおいても守りたい、愛しい娘ができたのだ。害をなすものは排除しなくてならない。
この屋敷にはスフィアナ以外にも囲われている女たちが居る。しかし、スフィアナが来てからというもの、主人の寵愛は彼女に独占され、多くの妬みを買っていた。
以前なら放っておいたが、もしも悪意の矛先がミリアに向けられたらと考えたら不安で仕方ない。
だから彼女は女たちを全員屋敷から追い出した。男にちょっとおねだりするだけの簡単な作業であった。
このときすでに、男はスフィアナの願いを叶えるための傀儡となっていた。本人は言いなりになっている自覚はなく、籠の鳥を愛でているだけのつもりだったが、周りからすれば正常な思考を無くしていることは明らかであった。
スフィアナのことを怪しむ者が苦言を呈すれば、彼女は容赦無く排除した。自分たちを脅かす者は許さない。その振る舞いは、もはや悪女と言われても仕方がないものだった。
しかし、その一方で、ミリアには精一杯の愛情を注ぎ、少女は健やかに成長していった。
男はもはや父親として機能していなかったが、権力で女を囲うような男には最初から父親役など当てにしていなかった。
母娘二人で過ごす時間だけが、彼女にとって、かけがえのない幸せを感じさせてくれた。
「おかぁさん、ごほんよんでぇ」
「いいわよ、いらっしゃい」
大好きな絵本を抱えておねだりするミリアを膝の上に座らせると、娘のふわふわした髪と耳を撫でながら、スフィアナは小さな体から伝わる温もりをひしと抱きしめた。
「えへぇ、おかぁさん、あったかい」
「ミリアも温かいわ、とっても……温かい」
こそばゆそうに見上げるミリアの頭に頬をすり寄せながら、スフィアナは娘との幸せな時間を過ごすのだった。
しかし、母娘が仲睦まじく暮らす一方で、男の方は限界が近かった。毒に冒された彼に残っているのは、もはやスフィアナへの執着心だけである。
そして事件は起こった。
*
男はしばしば客人の前にて、宝物を見せびらかすようにスフィアナを披露することがあったのだが、彼女の美しさは当然他の男も惹きつけてしまう。
我慢できずにスフィアナに言い寄る男が出てきてしまうのも無理からぬ話で、もはや自制ができる精神状態になかった男は激昂して客人を殺してしまった。
侍女たちにも現場を目撃され、隠し通すことは不可能だった。
しかし、スフィアナは冷静だった。
殺人はあくまでも男が勝手にやったことだ。もちろん、男をおかしくさせたのは自分が原因だが、証拠がないのだから罪に問われることはない。
男が捕まった後は、ミリアを連れてどこか静かな場所に移り住めばいい。男から贈られた宝石類を売れば母娘で暮らすには十分な金になる。
だからスフィアナは焦らなかった、行方不明者の捜査にやってきた者の姿を見るまでは──。
*
(これは偶然なのか……?)
行方不明者の遺体が見つかり、男が客人を殺したとの証言も取れた。あとは男を逮捕すれば事件はあっさりと解決する。
それだというのに、アリューシャはどうにも腑に落ちなかった。
それは、事件の渦中にいたのが彼女だったからに違いない。
「以前も……こうしてお前に事情聴取をしたな」
「ええ、あのときはお世話になりました」
問いかけにも何ら動じることはなく、落ち着いた様子で答えるスフィアナに、アリューシャは目を細めた。
過去の事件で、その後どうなっていたのか気がかりではあったが、豪華な身なりを見れば随分と大切にされていたことがわかる。
過去にも美しい女という印象を抱いたが、今やその美しさは威圧感すら覚えるほどに増大していた。
「証言に間違いはないか?」
男がスフィアナを巡って争ったことは証言からも確かだ。しかし、当の男は錯乱しているようで受け答えも支離滅裂。
スフィアナが言うには、以前から精神的に不安定になっていたらしい。そのせいで、些細なことに激昂してこのような事件が起こってしまったらしいが──。
「はい、全てお話した通りです。殿方はどうしてすぐに争いを起こすのでしょうね」
彼女の薄い笑みに覆われた表情からは不安や悲しみは感じられなかった。
(男を惑わす美貌か……)
嫉妬による殺人で片付けてしまうこともできるが、それにして男の様子がおかしい。その姿が、過去に監獄で見た彼女の父親と重なるのだ。
「お前の父親が、監獄で死んだことは知っているか?」
アリューシャの言葉に、スフィアナの顔が一瞬だけ強張ったが、しかしすぐに綺麗な笑みで隠される。
「最後までお前の名前を呼んででいたそうだ」
「そうですか、罪深い人でしたから」
それ以上、スフィアナは何も言わなかった。
*
アリューシャを前にして、スフィアナの心の内は緊張と不安で張り裂けそうだった。
よりにもよって、ここで彼女と再開するとは、なんという巡り合わせだろうかと運命を呪った。
父親のことまで調べられているなんて思いもしなかった。彼女は明らかに自分のことを疑っている。
それでも、自分が罪に問われることはないと高を括っていたスフィアナは、そこで女の醜さというものを改めて思い知ることとなった。
スフィアナによって屋敷を追い出された女たちが復讐してきたのだ。
事件を聞きつけた女たちは訴えた。
スフィアナが来てから男が変貌してしまった。男に毒を盛って資産を乗っ取ろうとしていた。陰で操り邪魔者を排除してきた。この殺人もスフィアナの策謀だ──などと、あることないこと言い出した。
もちろん証拠はないが、スフィアナに対する妬み恨みを抱えた女たちは口裏を合わせ嘘を重ね、スフィアナをハメようとした。
そして女たちの恐ろしい執念により、あろうことか、スフィアナは参考人として連行されることになってしまったのだ。
もしも、捜査していたのが、スフィアナに疑いの目を向けていたアリューシャでなければ、女たちの戯事が聞き入れられることはなかっただろう。
もしも、スフィアナが大人しく従ったうえで否認を続けていれば、証拠不十分ですぐに開放されただろう。
しかし、彼女にはミリアがいた。万が一にも捕まってしまえば、娘はどうなってしまうのか。あの叔父夫婦の元になど送られてしまったら──と考えると、気が気ではなかった。
そしてスフィアナは娘を連れて逃げ出し、アリューシャとの逃走劇が始まった。
*
アリューシャは驚愕した。
スフィアナが娘を連れて逃げた。すぐさま追手を差し向けたはずなのに捕まらない。
なぜか? 彼女の逃亡を手引きしていたのがその追手の男だったからである。
結果、彼女は上手いこと逃げおおせたのだ。
捜査を妨害した男が捕まったとき、彼は正常な判断力を失っていた。状態が回復した後、本人が語るも、なぜ自分がスフィアナを助けたのか理解できないと言う。
(魔性の女なんて生温い……あの女は魔女そのものだ!)
スフィアナという女が、放置しておくにはあまりにも危険な存在だと確信したアリューシャは、絶対に捕らえてみせると心に誓い、彼女を追い続けた。
*
スフィアナは逃げた。大切な娘を連れて逃げ続けた。
追手から逃げるために、スフィアナという名前も捨て、アルテラと名乗るようになった。
しかし、どこまで逃げてもアリューシャの影が忍び寄ってくる。女だからスフィアナの毒も効かない、まさに天敵である。
もはや国内に逃げ場はなくなり、彼女は人族の国へと渡った。
人族の男にも彼女の魅了の毒が効くことは幸運だった。男さえ誑し込めば大抵のことはどうでもなる。
けれど、人族の国において、獣人の母娘はあまりにも目立ちすぎた。一処に留まればすぐに噂が立ってしまうせいで、平穏な暮らしを得ることはできなかった。
執念深く追いかけてくるアリューシャの影に怯えながら、獣人である自分たちが穏やかに暮らせる場所を探し、逃げて、逃げて、逃げ続けて──。
そうして辺境の地まで流れ着いた母娘は、森の中で見つけた小屋に住みついていた。おそらく木こりが寝泊まりに使っていたのだろう、長いこと使われた形跡もなく、一時的に隠れ住むには十分たったが、問題は山積みだ。
自分もそうだが、逃避行のせいでミリアはずいぶんとやつれてしまった。気丈に振る舞っているが、これ以上逃げ続けるのは限界だし、携行している食糧も残り少ない。器用なスフィアナであっても狩猟などしたことがないし、森の植物の知識もない。
人に見つかる危険は回避したいが、人里から離れての暮らしは、この母娘には厳しいものだった。
「おかあさん……」
母親の不安を察したのか、ミリアが不安そうにすり寄ってくる。
「大丈夫よ、ミリアのことはお母さんが守るから」
「ぅん……」
そして疲れて眠ってしまった娘を残して、彼女は夜に近隣の人里へと忍び込むと、果樹園から果物を盗んだ。
途中で見つかってしまい急いで逃げたのだが、次の日、彼女たちの元に複数の男たちがやってきた。
盗みをしたことがバレたのだと察したスフィアナは、彼らに懇願した。
「お願いいたします……私はどうなろうとも構いません……どうか、どうか娘だけは見逃してください!」
すると、集団の中から年若い男が彼女たちの前に歩み出てきた。
成人して間もないのだろう、まだ幼さが抜け切れていない青年だったが、周りの態度から見るに、おそらく彼が集団のリーダーだ。
獣人が珍しいのか、青年は自分たちを驚きの目で見つつも、その視線は顔と胸元をチラチラ行き返りしている。その僅かな挙動で、スフィアナは彼が童貞だと見抜いた。誘惑すればあっさりと堕とせそうだ。
(ちょろそう……)
まさか自分がそんな評価をされているとも知らず、青年は彼女たちに語りかける。
「キミたちに危害を加えるつもりはない。だから落ち着いて、話を聞いてほしい」
────こうして、スフィアナは田舎領主様と出会った。