「俺はこの地の領主だ。きみたちの力になれるかもしれない。だから話を聞かせてくれないか?」
警戒するスフィアナたちを刺激しないよう、それ以上は近づかず、青年は困った顔をしながら、危害を加えるつもりはないと両手を上げて見せる。
「領主様──あなたが?」
そう言われたところで、スフィアナもそう簡単に信じることはできない。なにせ目の前の青年はまだ年若く、身なりも質素。確かに身につけている指輪は値打ちものに見えるが、お世辞にも領主としての貫禄があるとはいえない。
けれど、その純朴そうな面構えからは、自分たちを捕らえてどうにかしようという魂胆も感じない。
相手の真意を測りかねたスフィアナが青年の瞳をじっと見つめていると、何故か照れたように締まりのない笑みが返ってきた。
(なんだか頼りなさそうな坊やね……悪意があるようには見えないけど……)
人族の国に渡ってきてからというもの、出会ってきた人間は獣人であるスフィアナたちを歓迎してはくれず、彼女たちに奇異と不信の眼差しを向けてきた。
だから獣人だとばれないように耳と尻尾を隠して旅をしてきたというのに、獣人と分かっていて友好的に近づいてくる人間は初めてなので困惑してしまう。
「このまま森に居続けていては、その子が辛いだろう?」
素直に差し伸べられた手を取っていいものか逡巡するスフィアナだったが、青年からミリアの状態を指摘されてしまうと弱かった。
自分はともかく、ミリアをしっかりと休ませてやるためにも、今は申し出を素直に受けるのが上策と判断したスフィアナは、静かに頷いた。
(まあいいわ……この坊やが本心で何を考えているにせよ、男相手なら、いくらでもやりようはあるもの)
人族の男であっても自分の毒が有効なのが分かっているのだ。とりあえずは、大人しく彼の言う通りにすることを決めた。
従順な姿勢を見せるスフィアナに安堵した青年は、どうやら自分たちを屋敷に連れて行くらしい。
道すがら名前を聞かれたので、とうぜん偽名を教えた。青年はシーズという名前らしいが、どうやらスフィアナの頭とお尻に付いてるものが気になるようで、隣を歩きながらチラチラと覗き見してくる。
(そんなに耳と尻尾が珍しいのかしら? 人族の感覚ってよくわからないのよね)
スフィアナからすれば、あるべきものが無い人間のほうが奇妙に感じる。
シーズはミリアのことも気にかけているようだが、人見知りする娘に避けられヘコんでいた。そんな様子から、なんとなく彼の人となりが掴めてくる。
(見たところ、ただのお人好しって感じかしら。それと────スケベね)
耳と尻尾だけではなく、スフィアナの大きな胸をチラ見しているのもバレバレであった。
*
案内された屋敷を前にして、そこで初めてシーズが領主だということに信憑性が出てきたのだが、屋敷内は想像していたよりも質素で、これならスフィアナに当てがわれていた離れのほうが豪華であった。使用人も老婆と老夫しかいないらしい。
(まあ、片田舎の領主なんてこんなものかしら……けど)
自分たちの情報が漏れることを恐れ、出来る限り目立たずに暮らしたいスフィアナにとっては好都合である。
その後、気難しそうな使用人の老婆に汚れた身なりを指摘されたスフィアナたちは、案内された浴室で久しぶりの湯あみに人心地がつく。
ぎゅっと目を瞑るミリアの頭にお湯を掛け、丁寧に髪をほぐしてやりながら、スフィアナはシーズが取り入るに値する相手かどうか推し測っていた。
どうすればミリアが幸せに暮らせるか、それだけがスフィアナにとって重要なのだ。
「んゅぅ……おかあさん、おわったぁ?」
「ええ、綺麗になったわ、次は体を洗いましょうね」
顔にかかったお湯を小さな手で拭うミリアに微笑みかけると、体をくまなく洗って汚れを落とした後、用意された替の服を着た二人は食堂に通された。
テーブルに並ぶ温かな料理を前にして、さすがのスフィアナも、しばらくまともな食事をしてなかったせいで腹が鳴りそうになり、ミリアなど目を輝かせ今にも飛びつきそうである。
豪勢な食事ではなかったものの、空腹の二人にとってはご馳走である。
スフィアナが上品な仕草でスプーンを口に運びスープを味わいながら、向かいの席に座り熱っぽい視線で自分を見ているシーズに注意を配る。
おそらく、これから自分たち母娘の身の上について問い質されるだろうと、あらかじめ受け答えを考えていると、予想通りにシーズが口を開いてきた。
二人はどこから来たのか、なぜあんな森の中に居たのか──。
もちろん、逃亡の身であることを洗いざらい話すつもりなど毛頭ない。スフィアナは核心をぼかし適度に作り話を織り混ぜながら、不幸な目に遭って故郷を追われた哀れな母娘を演じてみせた。
お人好しのシーズはどうとでもなりそうだったが、使用人の老婆の方はそうもいかなかった。国にいられなくなった原因について言及されてしまい、スフィアナは言葉に詰まる。
(下手なことを言って怪しまれたくはないわね……優しい領主様は助けてくれるかしら?)
スフィアナはシーズの視線を意識しながら、悲痛な表情を顔に貼り付ける。まるで悲惨な過去について語るのが辛いのですと言わんばかりに。
「まってくれマーサ、そんな尋問するような言い方は……」
すると、思った通り、シーズは悲しむ女を咎めることに心が痛んだのか、老婆の追求を止めてくれた。
「坊ちゃん。甘いだけの人間に領主は務まりませんよ」
厳格な教師のように主人を叱咤する老婆。
(それには私も同意するわ、あなたみたいな坊やは悪い女に利用されてしまうのよ?)
この時点で、スフィアナはシーズのことをお人好しで扱いやすい絶好のカモだと判断した。
これまで出会った男たちの中でもダントツにちょろい。まだ色仕掛けをしていないのにこの有様だ。温室育ちの世間知らずなお坊ちゃん。まるで、過去の自分を見ているようで嫌気が差す。
哀れなスフィアナ。男によって幾度も辛酸を舐めた彼女の心はあまりにも汚れてしまった。例えそれが純粋な善意であったとしても、もはや彼女には男の好意など汚らわしい欲望の産物としか映らなかった。
*