さて、獣人の母娘がラングレイブ家の屋敷で暮らし始めてから暫くして、二人が屋敷の生活にも慣れ始めてきた頃、シーズは遠方に住む幼馴染の誕生日パーティーに出席するため数日のあいだ屋敷を離れていた。
そのため、当主が不在となった屋敷内はひっそりと静まり返り、普段であれば朝から晩までシーズのお世話(性的な奉仕も含む)をしているスフィアナも、日中は手持ち無沙汰気味に屋敷の掃除をしていた。
(あの坊やが居ないだけで、随分静かになるわね……)
そこまで広くもない屋敷だが、マーサは元から口数が少ないし、庭師のドイル老は外で仕事をしているので、屋敷内での会話が極端に少なくなってしまう。
とはいえ、それで感傷的になるほどスフィアナの心は女々しくはない。たとえ主人が不在であっても黙々と仕事をこなすだけだ。
シーズには気の毒なことだが、彼女に「旦那様が居なくなってから、ずっと胸が締め付けられるわ……もっ、もしかして、これが恋をするということなのかしら……?」なんて生娘のような反応を求めてはいけないのだ。
むしろ、「あの性欲だけは一人前な坊やの相手をしなくていいのは楽だわぁ」と思ってるぐらいである。
数えきれないぐらい男と寝て子供も産んだスフィアナだが、いまだ恋というものを経験したことはない。
というか、無理なのだ。
幼くして男に壊された心はその機能を失っている。この先、シーズがどれだけ彼女に愛情を向けたところで、それが取り戻されることはない。
枯れ果てた花園を心に持つ女、それがスフィアナである。
しかし、母親は無情であるが、彼女の大切な娘はそうではなかったらしい。
「おかあさん、だんな様、まだかなぁ……?」
一緒に掃除をしていたミリアは窓に顔を近づけると、じっと外の門を見つめながら寂しそうに呟いた。
シーズが屋敷を留守にしてからというもの、ミリアは目に見えて落ち込んでいた。
今までは自分さえ側に居れば笑顔でいてくれたというのに────スフィアナは娘がここまでシーズに懐いていたことに驚いた。
「そうねぇ、そろそろお帰りになる頃だと思うけど」
「にゅぅ…………」
まるで主人を恋しがる子犬のようだ。いつも元気にピンと立っているミリアの獣耳も今はしょげたようにペタリと折れ曲がっている。
(くっ、ミリアにこんな顔をさせるなんて……ッ!)
母親にべったりだった娘の知らない一面を見せられ、シーズに嫉妬してしまう心の狭いスフィアナだった。
「ほらミリア、そろそろお勉強の時間よ。旦那様がお留守の間もいい子にしていれば、きっとお帰りになったとき褒めてくれるわ」
「だんな様、ほめてくれるかなぁ?」
「ええ、きっと」
「そっかぁ……うん、ミリアがんばる!」
スフィアナの励ましを素直に信じたミリアが小さな手をぐっと握る。しょげていた獣耳がピンっと立ち直り、瞳はやる気に満ちていた。
(うちの子かわいい!)
ミリアのことであれば何でも可愛く見えてしまうスフィアナも大概単純であった。
*
ミリアが去ってからすぐ、スフィアナは窓から見える屋敷の門前に一台の馬車が止まったのを確認した。
きっとシーズが帰ってきたのだろうと思ったスフィアナは急ぎ玄関に向かって出迎えの準備をするが、べつに彼が帰ってきたことが嬉しくて急いでいるわけでは無い。
主人の帰りを喜び出迎えるメイド──を演じてポイントを稼ごうとしているだけだ。これはあざとい!
しかし、ちょっと気合を入れすぎたのが失敗だった。
「お帰りなさいませ! 旦那さ…………っ」
「うぉッ?」
相手を確認しないまま玄関のドアを開いたスフィアナは途中まで言ったところで、そこに居るのがシーズではなく見知らぬ少女だったことに気づいた。
歳はシーズと同じぐらいだろうか、背はスフィアナよりも低く、艶やかにきらめく長髪、澄んだブルーの瞳、まだ幼さが残っているが端正な顔立ちをした美しい少女で、上等な服装から良家のお嬢様だというのが見て取れる。
思わぬ訪問客に面食らったスフィアナだが、それは相手も同じだったようだ。少女は大きな瞳を丸くし、キョトンとした顔でスフィアナのことを見ている。
しかし、すぐに彼女の頭に生える獣耳に気づくと、その可愛らしい顔には似つかわしくないニンマリとした笑みを浮かべる。
「へぇっ、ほぉぉ、なるほど、なるほど、獣人のメイドかぁ〜」
(なんなの、この子?)
スフィアナは直感的に少女の中身が可愛らしい見た目にそぐわない変人だということに気づいた。
警戒を見せるスフィアナに少女が近く。
「いや失礼、なに、私は怪しい者じゃない。だから……ちょっとだけ体を触らせて貰えないだろうか? ほら、そのスカートの後ろに隠れているフサフサした尻尾なんかをナデナデと」
「!?」
好奇心に目を輝かせてにじり寄ってくる少女。まるで変質者のような手をワキワキと動かす姿に尻尾が逆立つ。
(気持ち悪い……ッ!)
「うへへ……ちょっとだけ、ちょっとだけだから」
そして、狼狽るスフィアナに少女の魔手が襲い掛かろうとしたそのときだった。
「これはこれは、マリーレイアお嬢様」
スフィアナの背後からマーサが姿を表すと、マリーレイアと呼ばれた少女に向かって丁寧にお辞儀をした。
「まっ、マーサさん、こちらの方は……」
「この方はヴィクタール家の御息女、マリーレイア様です」
「だから言っただろう? 怪しい者じゃないって」
悪びれた様子もなく、けらけらと笑うマリーレイアにスフィアナは呆れ果てる。そもそも、そのお嬢様がいったい何の用で尋ねてきたというのか。
「ところで、マリーレイア様はお一人で? 坊ちゃんはご一緒ではないのですか?」
「いや、シーズの後に出たんだけど、どっかで追い越したみたいだ。たぶんあいつもすぐに着くと思うよ」
その言葉を聞いて、スフィアナはようやくマリーレイアがシーズの言っていた幼なじみだということに気づいた。
「左様でございますか。それでは、坊ちゃんが帰るまでどうぞ屋敷でごゆるりとお過ごし下さいませ」
「どーもどーも、ところで、そっちのケモミミメイドさんとも是非お近づきになりたいなぁ〜」
「ひっ!?」
欲情した男のような目で身体中を舐めるように見てくるマリーレイアに怖気が走る。
(あぁ……旦那様、早く帰ってきて……)
身の危険を感じたスフィアナは初めてシーズの帰りを心から願うのだった。
*
幸いなことに、マリーレイアを客室に案内してからすぐシーズを乗せた馬車が屋敷に到着した。
彼もマリーレイアが屋敷に来ているとは思いもしなかったようで、幼馴染の姿を見てギョッとしていた。
スフィアナはしばし二人の関係を探ろうと観察していたが、どうやら恋人という感じではなさそうだ。
もしかしたら、自分たち母娘を脅かす存在かもしれないと、マリーレイアを警戒していたスフィアナだったが、彼女のことを見れば見るほど、その奔放さに愕然としてしまう。
(ほんとに、なんなのよ、この子……)
せっかくの可愛い容姿を台無しにするような粗野な立ち居振る舞い。シーズに対しても男を立てるような気遣いは微塵もなく、ひたすら自分の欲求に従って好き放題だ。
スフィアナの中では、女という生き物は男に媚を売り束縛させることでしか生きていけない弱い存在のはずだった。勿論そこには自分も含まれている。
たとえ男を操る力があったとしても、男がいなければ何もできない無力な自分。だから嘘を並べて体を売って男に取り入ってきた。
スフィアナは男が嫌いだ。男なくして生きられない自分も嫌いだ。
それだというのに────この少女はいったい何なのだ?
未知の存在として映るマリーレイア。彼女を見ていると、心の中にえも言われぬ感情が渦巻いてくる。
それが何なのか、スフィアナはすぐに気づいた。
(私……彼女が羨ましいんだわ……)
男に縛られず、思うがまま自由に生きている彼女こそ、スフィアナが求めていた姿だったのだ。
そしてもう一つ。
(この子は、恋をしている……)
スフィアナ自身は恋ができない、それがどいういう感情なのか理解もできない。
なのに、どうしてだろうか? マリーレイアがシーズに恋をしているのが分かるのだ。
マリーレイアの乱暴な仕草や物言いの裏に隠された想いを感じ取ることができた。
欲しかったもの、失ったもの、その両方をマリーレイアは持っていた。
スフィアナがマリーレイアを見る目は、持たざる者が持つ者に向ける羨望の眼差しだったのだ。
スフィアナに残されたのは性で男を虜にする力だけ。
それだというのに────。
*
(へぇ……ふぅん……まぁね、べつに坊やが誰と寝ようと知ったことではないけどね……)
ある朝、いつものようにシーズを起こしに寝室を訪れたスフィアナは、ベッドの上で仲良く裸で眠っているシーズとマリーレイアを冷たい瞳で見下ろしていた。
こうして、マリーレイアの出現により、スフィアナの心は掻き乱されてゆくのであった────。