(もう、駄目ね……)
アリューシャの獲物を狙う猟犬のような鋭い相貌を前にして、スフィアナは束の間の平穏が終わりを迎えたことを悟った。
さっきまで不安と焦りで一杯だった頭は、いざ最悪の場面に直面すると驚くほど冷静に状況を受け入れていた。
視線を動かしミリアの安否を確認する。泣きそうな顔をしているが、手荒な真似はされていないようだ。側には警戒した面持ちのマリーレイアがついているが、彼女が娘に危害を加えることはないと確信している。
そして、疑念に憑かれた眼差しを自分に向けるシーズを見て、彼らが自分の過去を知ってしまったことも察した。
「逃げようなどとは考えないことだ」
警告するアリューシャの視線は怯えるミリアに向けられている。まったく忌々しい女だ。娘を置いて逃げることなどできないし、仮に連れて逃げおおせたところで人族の国に獣人の行き場などない。
追い詰められ、彷徨わせた視線がシーズとぶつかると、彼はそれを受け止めることもできずに目をそらす始末。
味方はない。逃げ場もない。
スフィアナは諦めたように深く静かに息を吐くと、これまでの日々を思い返した。
短い間だったが、ここでの生活は存外に悪くなかった。
この屋敷に住む者たちは素性の知れない獣人の母娘を受け入れてくれた。それだというのに、結局は自分の背負った業で台無しにしてしまったのだ。
すべて自業自得。それどころか、自分がこの地に流れ着いてしまったことで周囲を巻き込んでしまった。
私が現れなければ、きっとシーズとマリーレイアは自然と結ばれ、跡継ぎが生まれ、マーサやドイルもそれを喜び、皆が幸せになっていたのではないだろうか。
私は悪い女だ。
私は人を不幸にする女だ。
ごめんなさい。
本当にごめんなさい。
だから────。
懺悔を終えたスフィアナの表情はとても穏やかで、迷いのない目をしていた。
そして彼女はシーズに語りかける。
「ねえ旦那様、私を助けてくださらないの?」
縋るでもなく、媚びるでもなく、ただ淡々と。
あまりにも平然と、それが当然であるかのような彼女の態度に、シーズは自分が何を言われたのか一瞬理解できなかった。
「あなたは私を助けてくれる、そう約束してくれたじゃありませんか? 今がそのときですよ? さあ、早く私を助けてくださいな」
自分が助かると信じて疑わない彼女の口ぶりは平然としているが故に恐ろしい。
スフィアナの狂気にあてられたシーズは困惑し、喉から掠れた声を漏らすことしかできなかった。
いったい、追い詰められているのが誰なのか分からない状況に不穏な空気を察したアリューシャが懐に隠し持っていた短剣を引き抜くと、鋭い切っ先をスフィアナに突きつける。
「黙れ、ここにお前を助ける者はいない」
殺意の篭った輝きに恐怖したミリアが悲鳴を上げて母親に駆け寄ろうとするのをマリーレイが慌てて抱きすくめる。
死の危険を前にして、しかしスフィアナは余裕の表情を崩すことはなかった。
もはや彼女に迷いはない。
自分たち母娘が助かるためにはシーズを犠牲にする以外道はなく、彼女にはそれが可能だった。
これまで散々と抱かれてやったのは全てこのときのためだ。代償は払い済み。シーズ、今度はお前が契約を守る番だ。
スフィアナの暗紫色に輝く瞳に見つめられ、シーズは顔を背けることもできず、その妖しい輝きに呑みこまれる。
「さあ、早くこちらにいらして旦那様。その女から私を守ってちょうだい」
魔女の呪禁を彷彿とさせる、まとわりつくような甘い囁きに引き寄せられるかのように、シーズはフラリと立ち上がり、スフィアナに近寄っていく。
スフィアナを守るように自ら刃の前に立ってしまったシーズにマリーレイアが怒鳴りつけるも、もはやその言葉は届いていなかった。
シーズの背中に隠れてほくそ笑むスフィアナに、アリューシャがギリッと奥歯を軋ませる。
この魔女が男を操る術に長けているとは知っていたが、目の前で起こったことの異様さは理解の範疇を超えていた。
まりにも危険な存在。これいじょう野放しにはしておけない。
「バカなやつだ……お前みたいな甘ちゃんは、いつか酷めに遭うと忠告しただろうが」
アリューシャは同情と憤りの混じった切っ先をシーズに向ける。
もちろん、彼を殺すつもりはない。獣人が人族の国で殺しなどできない、しかも相手が曲がりなりにも領主であれば国交に関わる問題に発展しかねない。
しかし逆に言えば、人族の国で素性の知れない獣人の女が斬り殺されたところで、大した問題にはならないのだ。
武芸に秀でた彼女にとって、シーズ程度の相手であれば片手で事足りる。まずは彼を組み伏せ、逃げる間も無くスフィアナを仕留める。もはや生かして連れ帰るなどという考えは捨てていた。
実際のところ、彼女の判断は間違っておらず、まともにやりあえば簡単に制圧できたあろう。
しかし、そんなアリューシャにとって、突如として自ら短剣の切っ先に向かって飛び込んできたシーズの予想だにしない行動には一瞬反応が遅れてしまった。
咄嗟にズラした刃はシーズの頬に喰い込み、肉が切り裂かれ、刃は頬骨にまで達した。
切られた血管から赤い体液が垂れ流れ刃を濡らす。
それだというのに、シーズは痛みすら感じていないのか、怯むことなく体ごとアリューシャにぶつかり、二人は勢いのままに後ろへ倒れ込んだ。
受け身を取ることもできずに床に叩きつけられ、さらに男の体重がのしかかり肺が押し潰される。
肺から空気が捻り出される苦しみに体が硬直し、アリューシャの手から短剣が抜け落ちる。
そして、床に転がった短剣を拾い上げたのはスフィアナだった。
刃を血で濡らした短剣を握りしめ、スフィアナはゆっくりとアリューシャに近寄る。
「そのまま押さえててくださいね、旦那様」
スフィアナの手が震える。人を殺めることへの恐怖心だろうか?
いや、ちがう、彼女は笑っていた。喜びに打ち震えているのだ。
アリューシャさえ殺してしまえば、もはや自分たち母娘を追う者は居なくなる。ミリアの幸せを邪魔するものは居なくなる。
どれだけこのときを待ち望んだことか。ついに因縁を断ち切ることができるのだ。
操り人形となったシーズさえいれば、後はどうとでもできる。
スフィアナは進んだ。一歩、また一歩、この先に幸せが待っていることを確信して。
そして、振り上げられた刃が冷酷に閃き──。