しかし、アリューシャに刃が突き立てられることはなかった。
彼女は困惑していた。「やめろ!」と叫んだのが、従順な下僕と化したはずのシーズだったことに。
なぜ、どうして、いくら考えても分からない。しかし、正気を取り戻したシーズと目が合い、優位性が失われたことを認めた瞬間、昂っていた感情は霧散する。
後に残ったのは恐怖だった。
太い腕、大きな体、抵抗もできず犯される幼い自分────。
力に目覚めたことで忘れていた、幼い頃に植え付けられた男への恐怖心が記憶と共に次々と蘇る。
軟弱な坊やだと侮っていたシーズが、今はまるで怪物に見えた。
犯される。壊される。いやだ、怖い、やだ、やめて────!
スフィアナは悲鳴を上げて後ずさると、震える手で握りしめた短剣をシーズに向かって突き出した。
*
耳をつんざくような悲鳴、血走った目、顔は恐怖で醜く歪み、獣のように荒い呼吸をしながら体を戦慄かせる。
あまりにも普段とかけ離れたアルテラの姿にシーズは呆然とした。
記憶の中にいる彼女は、どんなときも上品な微笑みを絶やさず、たおやかな声音で囁き、魅惑的な肢体で抱擁してくれる、まさに男の理想と言っていい女性。
そう、全て理想だったのだ。
男の理想によって塗り固められた偶像。
それがアルテラという女の正体だった。
そして、そんな身勝手な理想で彼女を支配しようとしていたのは────”おまえ”だった。
本当の彼女を見ようともせず、自分の理想で支配しようとしていたのは”おまえ”なんだと、シーズはようやく気づいた。
しかし、あまりにも遅すぎた。
初めて自分と彼女の隔たりを、その溝の深さを思い知ったとき、あまりにも遠い距離に愕然とした。
ああ、なんで俺は、もっと彼女のことを知ろうとしなかったんだ。
いつも自分のことばかりで、どうして彼女の心に寄り添おうとしなかったんだ。
自責の念にかられながらも、それでもまだやり直せることを願って、しかし、語りかける言葉が彼女の心に届くことはなかった。
全てを拒絶し、絶望に追い詰められた彼女が、短剣の切っ先を自身に向けたときにはもう手遅れだった。
「お願い……ミリアを……娘だけは、どうか幸せにしてあげて……」
彼女の頬に一筋の雫が伝って落ちた。
彼女の胸に短剣の刃が沈み、崩れるように床に倒れる光景を、シーズは届くことのない手を伸ばしながら、ただ見ていることしかできなかった。
そして、スフィアナは死んだ。
最後は悲しみの涙を流して、あまりにも呆気なく、救われないまま、不幸な少女の人生は終わってしまった。
*
母親の遺体に縋りつくミリアのむせび泣きが雨音をかき消して部屋に響く。
誰も何も喋らない。
無力感にうちのめされたシーズは黙ってその場に座り込み、マリーレイアもアリューシャも、後味の悪い結末に閉口するしかなかった。
ミリアはずっと母親を呼び続けていた。マリーレイアも心配していたが無理に引き離すこともできず、シーズはミリアの側に座ったまま、彼女が泣き止むのを待つことしかできなかった。
*
いつまでも続くかと思われた泣き声は、あるときピタリと止んだ。
見れば、ミリアは母親の遺体に抱きついたまま動かなくなっていた。
「ミリア……?」
返事はない。きっと泣き疲れて眠ってしまったのだろう。
「シーズ、ミリアちゃんをベッドに」
「ああ、そうだな……」
マリーレイアに言われ、シーズがミリアを抱き上げようとしたとき。その場にいた三人は驚くべき光景を目の当たりにすることとなる。
それは一瞬の出来事だった。
死してなお鮮やかな白銀を誇っていたスフィアナの毛髪からその輝きが失われ、亜麻色の髪へと変貌した直後、ミリアの髪と獣耳は美しい白銀に染まっていた。まるで、母親から抜け落ちた何かが娘へと乗り移ったかのように。
「なんだ……これは……」
思わず漏れたシーズの呟きに答える者はいない。マリーレイアですら理解を超えた現象を前にして動揺を隠せないでいた。
不気味な静寂に支配された空間で、ゆっくりと顔を上げたミリアが茫洋とした眼差しをシーズに向ける。
その瞳はアメジストのような美しい暗紫色に煌めいていた────。
<田舎領主様と獣人の母娘 アルテラ編 完>