「おやっ、お客さんですか?」
張りつめた空気をかき消すような、妙に軽い口調が店内に響く。
店の奥からひょっこりと現れたのは、和服姿の女性だった。
歳の頃は二十代後半だろうか、艶やかな長髪を結って肩から垂らし、カラコロと下駄を鳴らして近づいてくる。
「すみませんねぇ、お客さんがくるとは思いませんでしたので、ちょいと奥で片付けをしておりました」
ここは店だろうに、客が来たことを意外というのもおかしな話だ。
この女性、おそらく店主なのだろうが、ぱっと見は可憐な美人なのに、喋り方のせいかどこかお茶目な印象を受ける。
「ところで、お兄さんたちは、どのようなご用で?」
「いえ、すみません、たまたま店を見つけたもので……」
健二はこの場所にたどり着いた経緯を説明する。
「ああ……なるほど、確かにここはわかりづらい場所にありますからねぇ」
「こちらはなんのお店なんですか?」
「まぁ骨董屋ですね。色々ありますが、お兄さんたち向けのものはあまりないですねぇ」
確かに、健二たちにはここに置かれている品々の価値がさっぱり分からない。
あの鏡も、もしかしたらものすごく値が張る品物で、迂闊に手を触れてはいけなかったのもしれない。
「僕たちもう行きますんで。どうも、お邪魔しました」
「あらっ、なんのお構いもできませんで」
健二は、さきほどの奇妙な出来事もあり、この店はどこか不気味に感じていた。早々に立ち去ったほうがいいと、頭の中で警鐘が鳴っている。
修一と麻奈美も同じ気持のようだ。
「店を出て右手にまっすぐ進めば元の通りに出られますよ。ここは迷いやすいですからね、小道なんかに入っちゃあいけませんよ」
「わかりました。ご親切にありがとうございます」
麻奈美が安堵しながらお礼を言って、三人が店を出ようとしたとき、ふいに店主が声をかけた。
「あぁそういえば、お兄さんたち、店のものに触れてはおりませんか?」
健二はその言葉にぎくりとした。勝手に鏡に触ったことがバレたら怒られるかもと不安になる。
「いや、なんにも」
しかし、修一は何食わぬ顔でシラを切った。
店主もその言葉を信じたのか、にっこり微笑む。
「それならよございました。お気をつけてお帰りくださいね」
女店主に見送られ、そそくさと店を後にした三人が教えられた道を進むと、あっという間に元の通りに戻ってこれた。
どこから浮世離れした店だったせいか、人通りの多い光景を目にすると、まるで夢から現実に戻ってきたような気分になった。
ちょっとしたアクシデントはあったものの、怪我の功名というのだろうか、健二を煩わせていた引け目はいつの間にか頭の中から消えており、それ以降はは素直に楽しむことができた。
そうなると時間が経つのも早いもので、いつの間にか日は沈み、オレンジ色の夕日が彼らの後ろに長い影を作り始める。
楽しい時間が終わってしまうことに後ろ髪を引かれながらも三人は帰路につき、最後は互いの家の前で別れた。
その夜、健二は自室のベッドに寝転がりながら、今日の出来事を反芻していた。
久しぶりに麻奈美と長い時間を過ごすことができて、いまだ胸の高鳴りが収まらない。
目を閉じると、自分に向かって微笑む麻奈美の顔が脳裏に浮かぶ。
(麻奈実ちゃん、可愛かったな……僕なんかにも優しくて……もしも……彼女になってくれたら……)
甘い妄想に浸りながら、健二は深い眠りに落ちていった。
*
アラームのけたたましい音が鳴り響き、眠りを妨げられた健二は目を開く。
ぼんやりとした視界に映る天井に違和感を感じながら体を起こすと、すぐに違和感の正体に気付いた。
(なんで僕、修一の部屋で寝てたんだ……?)
そこは何度も訪れたことがある神崎修一の部屋だった。
しかし、どうして自分がここで寝ていたのかがわからない。昨日は自室のベッドの上にいたはずなのに。
健二は訳もわからないままベッドから降りると、本来ここにいるはずの修一を探しに部屋の外へと出る。
ドアをあけたところで、ちょうど廊下の向かい側から歩いてきた麻奈美と遭遇した。
「あらっ、おはよう。いま起こしに行こうと思ってたのよ」
麻奈美は健二が家にいることに驚いた様子もなく、普通に挨拶をしてきた。
「おっ、おはよう、麻奈美ちゃん」
面食らいながらも健二が返事をすると、麻奈美はキョトンとした顔で見つめ返してから、くすりと笑う。
「やだ、なあにそれ?」
「え?」
「もうっ、寝ぼけてるの? 朝ごはんできてるからね」
麻奈美の言葉に、健二は寝起きのせいで酷い寝癖でもついているのだろうかと思った。
どうして自分がこの家にいるのか。それを聞こうとする前に麻奈美は立ち去ってしまう。
彼女の背中を見送りながら、健二は何かがおかしいと感じた。
しかし、それがなんなのかわからず、しょうがないので言われた通りに顔を洗うことにする。
勝手知ったる友人の家だ。健二は迷うことなく洗面所に向かう。
それにしても、昨日の記憶が曖昧で、どうして修一の部屋で寝ていたのかが全く思い出せない。
ぼんやりした頭をはっきりさせようと洗面台に近づいたとき、鏡に映る自分の姿を目にした健二は、ありえないものを見てしまい、驚愕に息が止まりそうになる。
鏡に映っていたのは、健二のよく知るイケメンの親友。
神崎修一だった――。
振り返ってもそこには誰も居ない。
この場には健二しかいない。
けれど、鏡に映っている自分は、修一の姿をしている。
わけがわからない。
状況が理解できず、健二がおそるおそる自分の顔に手を触れると、鏡の中の修一もまた、同じ動きをする。
頬を引っ張れば皮膚は伸びるし痛みもある。
蛇口からひねり出された冷水を顔に叩きつけても、顔が濡れただけで何も変わらない。
ぽたぽたと顔から水を滴らせながら、健二は呆然とその端に立ちすくむ。
にわかには信じられないことが健二の身に起こっていた。
あまりの出来事に健二の思考は停止し、ふらふらとした足取りで向かったリビングでは、麻奈美が椅子に座ってトーストをかじっていた。
テレビからは朝のニュースが流れていて、カップに注がれたコーヒーからは芳ばしい香りが漂ってくる。
ありふれた朝の光景だが、今の健二はまるで夢を見ているような気分だった。
麻奈美はいつまでもドアの前で突っ立っている健二を不思議そうに見つめる。
「どうしたの?」
「えっと、麻奈美ちゃん……」
「もう、まだケンくんの真似?」
さきほど会ったときの麻奈美は、弟が健二の真似をしていると思ったのだろう。しかし現実は全く逆である。健二が弟の姿になっているのだ。
「いや、僕は……」
咄嗟に自分がその健二なのだと口を開きかけたが、寸前で思いとどまった。
当事者である自分でさえ、これが現実だとは思えないのだ。正直に告白したところで麻奈美が信じてくれるとは考えにくい。
健二は何も言えずに口をつぐむ。
挙動不審な弟に麻奈美は心配そうな顔を向ける。
「シュウくん大丈夫? 具合悪い?」
「いや、ごめん、ちょっと寝ぼけてただけだから……」
健二は戸惑いながらも席に座った。
朝から麻奈美と話しができたうえ、一緒に朝食をとるなんて、本来なら嬉しすぎる展開なのだが、とても喜んでいられるような状況ではない。
どうしてこのようなことになってしまったのか、曖昧な昨日の記憶を確かめる必要があった。
「まなっ……ねっ、姉さん?」
なれない呼び方に、どうしてもぎこちなくなってしまう。
「なあに?」
「昨日の夜って、家に帰ってから僕はどうしてたっけ?」
「えっ……シュウくんは疲れたからって、すぐに部屋に戻ったじゃない。晩御飯のとき呼びに行っても返事がなかったから、寝てるんだと思ってたけど」
神崎家は両親が海外赴任中のため、家事全般は麻奈実がしているらしい。以前に健二がそれを修一から聞いたとき、まるで漫画の主人公のような生活をしやがってと妬ましく思ったのは記憶に新しい。
「健二は来なかった?」
「ケンくん? 来てないけど……」
健二はそれを聞いて、やはり昨日は自分の部屋で眠っていたところまでは間違いないと考えた。
つまり、自分が部屋で眠っている間に、意識だけが修一の体に乗り移ったのではないだろうかと考えた。
あまりに突拍子もなく馬鹿げた想像だとは思うが、現にこうして普通ならありえない状況に陥っているのだ。
もしも健二の予想が正しければ、今も自分の部屋には山田健二の体があるはずだ。
いや、自分が修一の体に乗り移っているのだから、修一もまた山田健二の体に乗り移っている可能性もある。
はたまた、自分が一方的に修一の体に乗り移っているような状態なのか。
健二の脳内に様々な憶測が飛び交う。
しかしいくら考えてもわかるはずがなく、直接確認するしか術はない。
健二は朝食に手をつけることなく席を立った。
「シュウくん?」
様子がおかしい弟に戸惑う麻奈美をよそに、健二は修一の部屋に戻ると、机に置いてあった携帯を手に取った。
他人の携帯を勝手に操作するのは気が引けるけれど、そんなこと気にしている場合ではない。
幸いなことに指紋認証だったおかげでロックは簡単に解けた。
健二はアドレス帳から自分の名前を見つける。
もしも自分と修一の体が入れ替わっているのだとしたら、この番号にかけることで修一が電話に出るはずだと考えたのだ。
しかし、そうでなかったら?
つまり、魂のようなものだけが抜け出して、まるで幽霊みたいに修一の体に乗り移ったのだとしたら、元の体は魂が抜けた空っぽの、いわゆる植物状態になっているかもしれないのだ。
健二は最悪の事態を想像し、震える指でおそるおそる通話ボタンを押した。