事務所での日々は、思いのほか早く馴染んだ。
朝八時半に出勤して、帳簿の入力と請求書の整理。昼に沙世の作ってくれた弁当を食べて、午後は倉庫の在庫確認か、克典に頼まれた雑用。五時には上がれる。東京で終電まで働いていた頃が嘘のような生活だった。
田中さんは朝から軽トラで現場を回っていて、事務所にいることは少ない。克典も午後になると営業に出る。つまり、沙世が来る午後は、たいてい歩と二人きりになった。
沙世はお昼を届けてくれる以外にも、週に三回ほど仕事を手伝いに来る。だいたいは経理書類を片付けたり、お茶を淹れて帰るぐらいなのだが、沙世がいるといないとでは事務所の空気がまるで違った。
「歩、これ見て。克典さんの字、読める?」
沙世がファイルを持って歩のデスクに来た。開かれたページには、走り書きで形が崩れた文字が並んでいる。
「えっと……これは、かなり読みづらいですね……」
「でしょう? わたしも悩んで、もう直接聞いた方が早いと思ったんだけど、あの人今日は夕方まで戻らないのよ」
「じゃあ、前月の同じ取引先の伝票と照らし合わせてみましょうか。パソコンに画像データとして取り込んであるので」
「あら、気が利くわね」
歩がデータを開いて画面を見せると、沙世が椅子ごと寄ってきた。肩に手を置かれ、背中に柔らかいものが触れる。
歩は決して振り向かず画面に目を固定した。
「ああ、これですね、先月の分と一致してるし」
「ありがと。助かるわ」
沙世は画面を覗き込んだまま、少し首を傾げた。
「歩って、こういう仕事向いてるんじゃない? ちゃんとしてるわよ、仕事ぶり」
「いや、これくらい誰でもできますよ」
「誰でもはできないわよ。田中さんなんてキーボード入力も怪しいんだから」
沙世が笑う。歩もつられて笑った。こういう何気ないやり取りが、事務所にはいくつもあった。
その日の午後、克典から電話が入った。
「歩、悪いが倉庫の裏に積んである木材、手前の方だけでいいから中に入れてくれ。夕立が来そうだ」
窓の外を見ると、確かに西の空が暗い。歩は倉庫に向かった。
ブルーシートをめくると、角材の束がいくつも積まれていた。一束ずつ持ち上げて倉庫の中に運ぶ。思ったより重い。三束目で腕が悲鳴を上げ始めた。東京のデスクワークで鈍った体には堪える。
五束目を持ち上げたとき、足元の砂利に躓いた。バランスを崩して角材を取り落とし、咄嗟に手を出した。角材の角が右手の甲を引っ掻いて、皮膚が裂けた。
「っ――!」
声にならない声が出た。手の甲から血が滲んで、ぽたぽたと砂利の上に落ちる。
幸いにも表面が切れただけで深い傷ではないが、じんじんと熱い。片手で運べる重さでもない。仕方なく事務所に戻った。
「どうしたの歩……やだっ、血が出てるじゃない」
沙世が慌てて椅子から立ち上がった。歩の右手を取って、傷口を確認する。
「ちょっと座って。救急箱どこだったかしら……ああ、あったあった」
沙世は棚から白い箱を取り出して、歩の前に座った。
「手、出して」
言われるまま右手を差し出す。沙世が消毒液を含ませたガーゼで傷口を拭いた。沁みる。歩が思わず顔をしかめると、沙世はふっと息を吹きかけた。
「子どもみたいな顔しないの」
「いや、沁みるんですって」
「我慢しなさい」
沙世の指が歩の手を包んでいる。傷口を押さえる指先は丁寧で、力加減が柔らかかった。消毒のあと、ガーゼを当てて、テープで止める。手際がいい。
「はい、おしまい。しばらくは水に濡らさないでね」
「ありがとうございます」
沙世は救急箱を片付けながら、歩の手を横目で見た。
「無理しなくていいのよ。急に慣れないことをさせた克典さんが悪いんだから」
「すみません」
「謝らなくていいわよ。けど、次は手袋しなさい。倉庫のロッカーに軍手入ってるから」
沙世が給湯コーナーに戻って、お茶を淹れ始めた。歩はガーゼの巻かれた右手を眺めた。まだ沙世の指の感触が残っている。
(なんだかな……)
自分でもちょっとは役に立っているのかと思った途端このざまで、起き上がとうろしていた自尊心はまた力なくへたれてしまった。
沙世がお茶を二つ持って戻ってきた。
「今日はもう倉庫はいいわ。雨降ってきたし。シートをかけてれば大丈夫でしょう。残りは明日、田中さんにやってもらいなさい」
「はい」
湯呑みを受け取る。沙世も向かいの椅子に座って、自分の湯呑みに口をつけた。窓の外で雨音が強くなっていく。事務所の中は薄暗くなって、蛍光灯の明かりだけが白く灯っている。
「なあに? もしかして落ち込んでるのかしら」
「え、いや……」
「ふふっ、やぁね、こんなの失敗のうちに入らないわよ。田中さんなんかベテランなのに、前に資材を倒して他のも巻き込んで、いっぺんにダメにしちゃったことがあるんだから」
沙世は席を立って歩の隣に座ると、背中を優しく叩いた。
「自分がダメだなんて、思わなくていいんだからね」
「沙世さん」
「ん?」
「沙世さんって、優しいですよね」
沙世の湯呑みが、一瞬止まった。
「……何よ急に」
「いや、なんていうか……弁当作ってきてくれるし、怪我したら手当てしてくれるし。叔父さんの手伝いで来てるだけなのに、俺にまで気を遣ってくれてるじゃないですか」
「そんなの普通でしょ。甥っ子が怪我してたら手当てくらいするわよ」
「それはそうなんですけど。なんか、こう……ちゃんと見てくれてるなって。俺のこと」
沙世は湯呑みを両手で包んだまま、歩の顔を見ていた。表情が読めなかった。いつもの軽やかな笑みが消えている。かといって怒っているわけでもないし、照れているわけでもない。ただ、瞳の中で何かが揺れているような――そんな目をしていた。
「ちゃんと見てる、か」
沙世が小さく繰り返した。独り言のような声だった。
それから、窓の外の雨に目を向けた。横顔に蛍光灯の光が当たって、頬の輪郭が白く浮かんでいる。
「歩」
「はい」
「あなたって、そういうこと言うのね」
「え? なんか変なこと言いました?」
「変じゃないわよ。変じゃないけど……」
沙世は言葉を切って、お茶を一口飲んだ。飲み込んでから、いつもの笑みを顔に戻した。けれど、その笑みがほんの少しだけ遅かった。貼り直したみたいだと、歩は思った。
「ありがと。お世辞でも嬉しいわ」
「お世辞じゃないですけど」
「はいはい。じゃあ素直にもらっておくわ。あなた、東京でも女の子にそんなことばかり言ってたのかしら?」
「なんでそうなるんですか、してませんよ、そんなこと」
「そうよねぇ、全然女の子に慣れてるって感じじゃないものねぇ。いつもわたしのこと、ちょっとエッチな目で見てるし」
「見てないですよ!?」
「嘘おっしゃい、ちゃんと気づいてるんだからね」
「そ、それは……沙世さんが、そういう格好したり、体くっつけてきたりするから……しょうがないじゃないですか!」
「え……あなた、ほんとにそんな風に見てたの、わたしのこと」
「あ……」
とんでもない失言をしたと気づいた。しかしもう手遅れだ。面白そうなオモチャを見つけたように、ニンマリと笑う沙世を見ながら、歩はそう思った。


