「あーあ……戻ってきちゃったなぁ……」
誰に言うでもなく、声が出た。
バスの窓に額を預けたまま、久住歩《くずみ あゆむ》はぼそりと呟いた。隣の席には誰もいない。乗客は歩以外には老婆がひとりだけ。
静寂に揺られて三十分。国道沿いの店が途切れ、田んぼが広がり、山の稜線が近くなった。
リュックひとつとボストンバッグ。三年間住んだ部屋を引き払って残ったのはこれだけかと思うと、また落ち込みそうになる。
クビになった。
それだけのことだ、と歩は自分に言い聞かせた。たいていのことは「それだけのことだ」で片付けられるはずだ。
ただ、今回ばかりは片付けるのに少し時間がかかっていた。
ミスの内容は、今でも思い返せる。クライアントへの送信ファイルを間違えた。そこから小さなミスが芋づる式に大きくなって、取引が一件飛んだ。言い訳できない自分のミスだった。上司の顔を思い出すと、胸の奥がぎゅっと縮む感覚がある。でもそれは今は考えないよう努める。
終点のバス停で降りたのは歩ひとりだった。
土と草と、水の冷たさが混ざった匂い。東京では嗅ぐことのない空気だった。もっとも、東京にいた頃は空気の匂いなど気にしたこともなかった。
実家は町の外れにある。バス停から歩いて十五分。田んぼの間の道をボストンバッグを提げて歩く。用水路の水音が遠くに聞こえる。
道に迷うはずがない。子供の頃に歩き飽きた道だ。久しぶりでも、足が勝手に動いた。それでも、最後にここを歩いたのは三年前、母が他界したときだった。
実家の前に立ったとき、歩は少し足を止めた。
築三十年を超えた木造の平屋。庭木は剪定されないまま伸び放題になっている。雨戸が一枚、立て付けが悪いのか少し歪んでいた。両親が相次いで逝ってから誰も住んでいない家は、静かに古くなっていく。
鍵を差し込む。固くて、少し力を入れないと回らない。
扉を開けた瞬間、空気が動いた。
かびと木の匂い。畳が乾いて縮んだ匂い。どこかに線香の残り香が混じっている。人が住まなくなると、家はこういう匂いになるのだろう。
廊下を踏む。床板が軋んだ。
ブレーカーを上げて電気をつける。蛍光灯が一拍遅れて白くなった。台所の蛇口を捻る。水道も問題ない。ガスはまだ通ってないから、今夜は風呂なしだ。
歩は荷物を居間に置いて、縁側まで歩いた。
障子を開ける。庭に西日が差し込んでいた。伸び放題の枝が夕方の光を透かして、縁側の板に影を落としている。遠くで鳥が鳴いていた。
歩はそのまま縁側に腰を下ろした。
スマホを取り出す。通知はない。当たり前だ。この番号に連絡してくる人間は、もうほとんどいない。東京に残してきた知り合いたちとは、会社をクビになってから連絡が途絶えた。恨んでいない。もとから深い付き合いをしてこなかった自分の問題だ。
煙草を吸いたかったが、荷物の中にない。近くに小さな商店があったはずだけど、まだやっているだろうかと歩は思った。
夕暮れが庭の向こうで広がっていた。山の端が茜色に染まって、田んぼの水面がそれを映している。こんなに空が広かったか、と歩は思った。東京では空を見上げる習慣が消えていた。
どこかで水が流れている。遠くで犬が吠えている。風が枝を揺らす。
歩は両手を縁側の板について、空を見上げた。茜色に変わっている。綺麗だな、と思った。けど、この先どうするかなんて、何ひとつ浮かばない。胸の中にぽっかりと空洞ができていて、だんだん薄暗くなっていく空を見ていると、そこから不安がわきだしてくるようだった。
そのとき、門口の方に気配を感じた。
振り向くと、そこには人影があった。細い体。薄いエプロン。夕方の光の中で、その人は少し驚いたように歩を見ていた。
坂井栞《さかい しおり》。隣の家に住んでいる、幼い頃から知っている人だ。
歩より四つ上で、結婚してからもずっと町を出ずにいたらしい。最後に会ったのは母の葬儀のときだった。あのときは余裕がなくてろくに話もできなかった。
「……あ」
栞が小さく声を出した。驚きとも、戸惑いとも取れない、短い音だった。
歩は縁側から立ち上がった。何か言おうとして、言葉が出てこなかった。
栞はしばらく歩を見ていた。夕暮れの光が横から差して、その横顔の線をひとなぞりした。化粧の薄い、飾らない顔だった。でも、その目の静けさが、歩の中で何かに触れた。
「歩くん……帰ってきたんですね」
それだけだった。詮索するでもなく、ただ確かめるような声だった。
「まあ、一応」
歩はそう返して、頭を軽く掻いた。
栞は少し目を細めた。何を思ったのかはわからない。でもすぐに視線を落として、
「長いこと誰もいなかったから、いろいろ大変でしょう。何かあれば遠慮なく」
「ああ、はい、どうも……」
「それでは」
「ども」
互いに小さく会釈してから、足音が遠ざかっていく。
歩はしばらく、栞が去った方を見ていた。
夕暮れがさらに深くなっていた。空が紫に変わっていく。
庭に夜が下りてくるのを、歩はもう一度縁側に腰を下ろして、黙って見ていた。不思議と、さっきより少しだけ、この場所が違うものに感じられた。


