翌朝、目が覚めると天井が知らない模様をしていた。
一秒遅れて思い出す。実家だ。昨日の夜は疲れていたせいか、横になったらすぐに眠ってしまったようだ。
押し入れから引っ張り出した布団の上で、歩はしばらく天井を見ていた。換気はしたけど、かびの匂いがまだ少し残っている。
時計を見ると八時を過ぎていた。東京にいた頃は、休みの日には昼近くまで寝ているのが普通だったが、自然と目が覚めた。ここでは朝が違う音をしているからだろう。鳥の声。どこかで農機具が動く低い音。カーテンの隙間から入ってくる光が、妙に白くて強い。
起き上がり、昨夜、閉店ぎりぎりで間に合った商店で買ってきた菓子パンをかじりながら、缶コーヒーを飲む。今朝の食事はそれだけだった。
縁側に出ると、庭に朝の空気が満ちていた。
今日は挨拶に行かなければならない。
叔父の家は避けられない。それだけは行っておかないと、あとで面倒なことになる。栞の家にも、昨日の流れからすると一応顔を出しておいた方がいい気がした。それ以外は、別にいいだろう。自分から出向いて、わざわざ気まずい空気を作りに行く理由もない。
昼を過ぎた頃、歩は栞の家の前に立った。
表札に「坂井」の文字。呼び鈴を押して、しばらすると引き戸が開いた。
栞だった。
昨日の夕暮れの中で見た顔と、昼の光の中で見る顔は少し違った。化粧は薄く、髪を後ろでまとめている。昨日と同じエプロンをつけて、少し驚いた様子で歩を見た。
「ども、昨日はろくに挨拶もできなくて、すみませんでした」
「いえ、わたしこそ」
そこで言葉が途切れて、少し気まずい沈黙が流れた。ついでに腹が鳴った。わびしい朝食が仇になったようだ。
「あー、えっと……」
歩が頭を掻くと、栞がまたふっと目を細めた。
「お昼がまだなら上がっていってください。ちょうど準備をしていたところで」
「え、いや、そんな、悪いですよ」
「一人分も二人分も変わらないですから」
静かだけど有無を言わさない口ぶりで、なんだか断ることができなかった。
台所に続く小さなテーブルに向かい合って座った。栞が温め直した味噌汁と、白いご飯と、卵焼きと漬け物と肉の佃煮を出してくれた。ほんとうに余ったものをそのまま出したという感じで、気を遣った様子がなかったけれど、気兼ねしなくていいので、かえってよかった。
「どうぞ。たいしたものじゃないですけど」
そう言って、栞も向かいに座った。
歩は箸を取った。味噌汁を一口飲む。大根と豆腐が入っていた。出汁の匂いが鼻に抜けた。
素朴だけれど、おいしかった。
誰かの手作り料理がいつぶりかも思い出せない。だから少し、胸に刺さった。菓子パンだけで午前中を過ごしていた胃が、ゆっくりと温かくなっていく。
「実家、だいぶ傷んでましたか」
栞が聞いた。
「まあ、それなりに。雨戸が一枚歪んでて、ガスもまだ止まったままで」
「ガスは連絡すれば来てくれますよ。業者さんの番号、調べましょうか」
「あ、助かります」
栞は立ち上がって、引き出しから今どき見ない古い電話帳を取り出した。慣れた手つきだった。
歩は黙って卵焼きを箸でつまみながら、栞の話し方が少し引っかかっていた。昔はもう少し愛想がよかった記憶があったからだ。
栞はよく近所の子供たちの面倒をみていて、歩もその一人だった。そのときの接し方は今よりずっと親しげで優しかったはずだ。「あゆむくん、また転んじゃったの? ほら、お姉ちゃんのお家で手当しようね」というような、面倒見のいいお姉さんだった。互いに大人になったからか、今の栞からは過去との隔たり感じた。
窓から外の光が入ってくる。庭に植えた何かの花が風に揺れていた。食卓は静かで、二人分の箸の音だけが小さく響いていた。そういえば、家の中には他に人の気配がない。
「旦那さんはお仕事ですか?」
「今は県外に。月に一度帰ってくるかどうか、ですね」
「そう、ですか……」
さらりとした言い方だったが、ということは栞はこの静かな家に、ほとんどひとりでいるということだ。歩は箸を持ったまま、少し黙った。
栞は味噌汁を一口飲んで、窓の外に目を向けた。
横顔の線が、昼の光の中にあった。その目は何かを待っているような、あるいは諦めているような、どちらとも取れない。
「歩くんは、しばらくここにいるんですか」
「まあ……当分は。仕事も探さないといけないし」
「そうですか」
それだけだった。おせっかいを言うわけでも、哀れむわけでもない。今の歩にはそれがありがたい。下手に近所の住民と顔を合わせでもしたら、何を言われるか想像しただけでげんなりする。
「栞さんは、お仕事は」
「週に何日か、町の会社で事務をしてます。……それ以外はたいてい家にいますよ」
また短い返事だった。でも今度は、少し間があった。何かを続けようとして、やめたような間だった。
歩はそれには触れずに、味噌汁を飲んだ。風でカーテンレースが揺れて、畳に落ちた影がゆっくりと動いていた。
食事を終えて、出された湯呑を傾けていると、栞にじっと見つめられていることに気づいた。何かと思っていたら、栞はおもむろに立ち上がり、歩へと近寄ってきた。そして目の前にひざまずくと、ゆっくり顔を近づけてくる。
「え、あの、栞さん……?」
「歩くん……」
ふわりと甘い香り。女の匂いだった。
間近で見た栞の顔は、きめ細かい肌に、伏せた睫毛は長く、わずかに開いた唇の艶が、昼の光の中でひどく生々しかった。呼吸が近い。首筋の匂いまで届きそうな距離に、歩の鼓動が跳ねた。
その瞳に吸い込まれるように歩が顔を近づけようとしたとき、栞が口を開いた。
「歩くん、お風呂に入りましたか?」
「え? いえ、昨日は入ってないですけど」
「どうぞ、うちのお風呂を使ってください」
確かに昨日はよく歩いたし汗もかいた。
「俺、そんなに臭います?」
栞は何も言わず、歩の背中を押して風呂場へ連れていった。


