月曜日。朝八時半。
克典の事務所は町の中心部から少し外れた県道沿いにあった。「遠山商事」と書かれた看板が、朝日を受けて白く光っている。二階建てのプレハブに、隣接する資材倉庫。駐車場には軽トラが三台と、克典のSUVが並んでいた。
歩は自転車を停めて、入口の前で一度だけ深く息を吸った。
ドアを開けると、事務所の中は思ったより広かった。スチールデスクが四つ並び、壁際にはファイルキャビネット。古いエアコンが低く唸っていた。
「おう、来たか」
奥にあるデスクに座っていた克典が顔を上げた。事務所にいるときは眼鏡をかけているらしい。
「おはようございます」
「そこ座れ。一番手前の机、空けてある」
指された席に座ると、デスクの上にはノートパソコンが一台と、付箋の貼られたファイルが三冊積まれていた。
「まず帳簿の入力からだ。手書きの伝票を表計算ソフトに打ち込む。やり方はファイルの中に書いてある。わからんかったら聞け」
「はい」
「午後は倉庫の棚卸しを手伝ってもらう。重いもんもあるから、腰やるなよ」
克典はそれだけ言うと、自分の仕事に戻った。電話が鳴り、克典が受話器を取る。建材の発注の話をしている。声が大きい。事務所全体に響く。
歩はファイルを開いて、手書きの伝票と向き合った。癖のある字だった。汚くて判別できないものもある。それでも、パソコンに向かう作業自体は慣れていた。東京でやっていたこととは規模も内容も違うが、指が動く。キーボードを叩いている間だけは、余計なことを考えなくて済んだ。
十時過ぎに、もう一人の従業員が出勤してきた。五十代くらいの男で、作業着姿。「ああ、聞いとるよ。克典さんの甥っ子さんだろ」と言って、缶コーヒーを一本くれた。名前は田中さんといった。倉庫と現場を行き来する仕事らしく、すぐにまた出ていった。
昼前になると、玄関のドアが開いた。
「お邪魔しまぁーす」
聞き覚えのある声だった。顔を上げると、沙世が立っていた。
片手には手提げバッグ。白いブラウスにベージュのワイドスカート。この田舎の事務所には似つかわしくない、都会的な装いだった。けれどそれが嫌味にならないのは、沙世自身の気さくな雰囲気のおかげだろう。
「あら、歩。ちゃんと来てるじゃない。えらいえらい」
「あ、沙世さん。どうも」
「そんな勤労青年には優しい沙世さんから、差し入れを上げちゃうわ」
沙世は克典のデスクにバッグを置いた。中から弁当箱が出てくる。
「はい、あなたの分も作ってきたわよ。克典さんから聞いて」
「え、いいんですか」
「どうせ、いつも買ったお弁当ばっかり食べてるんでしょ」
半分図星だった。栞からおかずのおすそ分けがあるとき以外は、たいてい自炊が面倒になって、商店で買う弁当と菓子パンの繰り返しだ。
克典が電話を終えて椅子を回した。
「お、来たか。悪いな」
「お茶、淹れるわね」
沙世は慣れた様子で事務所の給湯室に向かった。ここではこれが彼女の役割らしい。
三人で弁当を食べた。克典は食べるのが早く、ものの五分で平らげると「午後一で現場行くから、歩、倉庫の方は書類仕事が終わってからでいいぞ」と言って出ていった。
事務所に歩と沙世が残された。
沙世は自分の弁当をゆっくり食べている。歩もまだ半分残っていた。卵焼きを箸でつまむ。甘い味付けだった。
「うまいです、これ。沙世さん料理上手ですね」
「でしょう? 克典さんは甘い卵焼き嫌いなの。私は大好きなのに。だからあなと私の分にだけ入れたわ、特別よ?」
そう言って片目をぱちっと閉じる。慣れているというか、自分がどんなふうに男から見えているのかわかっているような自然な仕草だった。
「はは、ありがとうございます」
「ねえ歩、仕事どう? こんな小さな事務所の雑務じゃ退屈じゃない?」
退屈。その言葉に、序章の記憶が重なった。あのとき自分が沙世に聞いてしまった言葉だ。今度は沙世の方から返ってきた。
「いえ、帳簿の入力とか、わりと集中できるんで」
「ふうん。パソコン触ってるときの歩、ちょっと顔つき違うわよ」
「そうですか?」
「真剣な顔。この前うちに来たときとは別人みたい」
沙世はお茶を啜って、少し笑った。からかっているのか、褒めているのか、判別がつかない。栞の飾らない言葉とは違って、沙世の言葉は薄いヴェールが被っているように、本音が見えそうで見えない。
「沙世さんは、よくここに来るんですか」
「そうよ、お昼届けたり、たまに経理の書類まとめるの手伝ってるわ。家にずっといても暇だしね」
さらりと言うと、沙世は弁当箱の蓋を閉じて、ふっと窓の外を見た。県道を走るトラックの音が遠く聞こえる。
「歩は、お隣の栞さんとは仲良くやってるの?」
不意を突かれた。
「え、まあ……え、ていうか、なんで?」
「狭い町だもの。誰がどこに住んでるかなんて、みんな知ってるわよ」
「ああ……」
しばらく忘れていたが田舎とはそういう場所だ。
「田舎って、こういうの、本当に嫌よねぇ。常に誰かに見られてる感じ、未だに慣れないわ」
「え」
「なによ、変な顔」
「沙世さんも、そんなふうに思うんですか?」
「そりゃあね、外から来た人間なら誰でも思うわよ。今の歩ならわかるでしょう?」
「まあ……そうですね。正直、近所の目とか、面倒くさいです」
「ふふっ、そうでしょ」
沙世は楽しげに笑う。てっきり上手くやってると思っていたけど、歩は叔母の意外な一面に驚かされたが、それ以上に共感を覚えた。
「だから、あまりオイタしちゃだめよ」
「おいた?」
わからない歩の耳元に沙世が唇を寄せる。
「だって、栞さん、人妻でしょう?」
湿り気を帯びた囁きに耳の穴をなぞられて、歩の肩が跳ねる。
「なに言ってるんですか!? 知ってますよそんなこと! 栞さんは昔からの知り合いで、親切なご近所さんなんですから、変なこと言わないでください!」
「ふぅん」
沙世の声には信じているとも疑っているともつかない響きがあった。口元は笑っているが、目は笑っていない――いや、笑ってはいるのだが、その奥にある温度が読めなかった。
「まあいいわ。今は仕事に励みなさいな」
「はあ……」
沙世は立ち上がって、弁当箱をバッグに戻した。
からかわれたのだろうか。いまいち掴みどころのない女性だ。
「じゃあ、わたしはこれで。午後も頑張ってね」
沙世はバッグを持って玄関に向かった。ドアに手をかけて、ふと振り返る。
「ねえ歩」
「はい?」
「お弁当、明日も持ってこようか?」
「え、いいんですか? でも、迷惑じゃ」
「迷惑なもんですか。二人分も三人分も同じよ」
「ありがとうございます。お願いします」
「よろしい」
沙世は軽く手を振って出ていった。ドアが閉まって、事務所に一人残される。エアコンの音が急にうるさく感じた。
歩はパソコンの画面に目を戻したが、ふと頭の中に栞と沙世の姿が思い浮かんだ。
(いや、どっちも人妻だし)
そう言い聞かせて、妄想をかき消すと、キーボードに指を置いて、伝票の数字を打ち始めた。


