目が覚めたとき、隣に栞はいなかった。当たり前だ。彼女は昨夜、あのあと自分の家に帰ったのだから。
起き上がって、自分の手をじっと見つめる。昨夜のことは、熱に浮かされていたせいか夢でもみていた気分だ。それでも、手のひらに残る彼女の柔らかさと体温は、まだそこに残っている気がした。
台所に行くと、椅子の背にエプロンが掛けられたままになっていた。歩は少し迷ったが、それを丁寧に畳み、隣家へ向かった。
どんな顔して会えばいいのかわからなかったが、すぐに行かないと、もっと会いづらくなりそうだったから。
ちょうど庭で水をやっていた栞と出くわした。昨夜の気配を微塵も感じさせない、いつもの穏やかな様子だった。
「あっと、栞さん、その」
「おはようございます」
歩に気づいた彼女はいつも通りに挨拶し、そのまま歩を居間へ招き入れた。まさか、こんな自分をまだ家に招いてくれるとは思っていなかった。
居間で出されたお茶を啜りながら、歩は意を決して口を開く。
「昨日のこと……本当に、なんと言ったらいいか、俺が暴走して……すみませんでした」
「謝らないでください。あれは、わたしから言ったことなんですから」
栞は湯呑みを見つめていた視線を上げて、改めて歩の目を見て、静かに、けれどはっきりと告げた。
「でも、ああいうことは、これきりにしましょう」
その言葉に、胸の奥が小さく疼いた。歩にできたのは、短く「はい、わかりました」と答えることだけだった。
「お昼ごはん、食べていきますか?もらいものの、お蕎麦があるので」
「え、いいんですか?」
意外だった。てっきり線引されたのかと思ったから。
「歩くんは、ほうっておくと、ちゃんとご飯を食べてるか心配ですから」
彼女は元の日常へ戻ることを望んでいた。立ち上がったその背中に、昨夜の影はない。それは寂しくもあり、ありがたくもあった。
蕎麦を茹でる音を聞きながら、歩は居間でぼんやりしていた。柱時計が正午を告げる。栞の家は隅々まで手入れが行き届いていて、彼女の性格が見て取れる。
テーブルの上の小さな花瓶に、庭から摘んできたらしい花が一輪だけ挿してあった。名前はわからない。白い、地味だけど綺麗な花だった。
栞がザルに盛ったそばを運んできた。つゆの器と、刻んだ薬味が小皿に分けてある。 「いただきます」
箸でそばをすくい上げて、つゆにくぐらせる。冷たい麺が喉を通っていく。薬味の大葉が鼻に抜けた。
「うん、うまいです」
「この大葉、庭で育ててるんです。他にも色々」
「へぇ」
栞もそばを丁寧にすくって、音を立てず口へ運ぶ。食事の間、昨夜の話は出なかった。代わりに、栞はゴミ収集日のことや、スーパーで安く買い物をするコツを教えてくれた。
歩は頷きながら聞いていた。あまりにも穏やかすぎて、昨夜のことが本当にあったのか、自分の中で曖昧になっていく。食べ終えて、歩が食器を流しに運ぼうとすると、栞が「いいですよ」と手を伸ばした。指先が触れた。互いに見つめ合って、ゆっくりと離れた。
それからの日々は思いのほか平和に流れた。
来週から克典の事務所で働くまでの数日間、家の中を片付けたり、町で買い物をしたり。少しずつ、生活の輪郭が定まっていく。栞とは毎日顔を合わせた。垣根越しに洗濯物を干していれば「おはようございます」と互いに声をかける。軒先で会えば「おかえりなさい」と言ったり、言われたり。
「歩くん、これ余ったんですけど」
ある日はきんぴらごぼう。翌日は煮物。その次の日はわざわざ焼いてくれた魚。栞はことあるごとに、おかずを持ってきてくれた。
「作りすぎた」が、もはや口癖のようだったが、夫が長いこと不在なら実質一人暮らしの食卓で、そうそう作りすぎることがあるだろうか。
歩はそのことに気づいていたが、口にしなかった。言えば、この穏やかな行き来が止まってしまう気がした。
空いてる時間に栞の庭作業を手伝うようになったのは自然な流れだった。裏庭に小さな畑があって、茄子ときゅうりとミニトマトが植わっている。栞が一人で世話をしているらしい。重たい肥料の袋を運んだりするのはやはり大変だったようで感謝された。
栞は作業を止めて立ち上がると腰を伸ばして、空を見上げた。
「主人は、あまり土を触るのが好きじゃなくて」
それだけだったけど、そこには長い時間が折り畳まれているように聞こえた。その横顔を見ていたら、ふいに栞がこちらを向いた。
「どうかしましたか?」
「いえ……何も」
夜、自分の家に戻って風呂を沸かす。ガスが通ってから、もう栞の家の風呂を借りる理由はなくなってしまった。湯船に浸かりながら、栞が一人でこの町にいる時間のことを考えた。
夫は月に一度帰るかどうか。日中はパートに出て、夕方に帰ってきて、一人で夕飯を作って、一人で食べて、一人で寝る。庭の畑も、花瓶の花も、全部一人でやってる。
「作りすぎた」と言って持ってきてくれるおかずは、寂しさの現れだとしたら、自分は身近な男として、栞に求められているのではないだろうか。そう思ったら、あの夜の記憶がまた蘇って、歩は頬を両手で叩いた。跳ねた湯がぱしゃりと飛び散る。
――これきりにしましょうね。
栞の声が頭の中で繰り返される。栞は人妻で、自分とは昔からの顔なじみで、今はたまたま隣に住んでいるだけの関係。親切な隣人。それだけだ。それだけの、はずだった。
風呂から上がって、髪を拭きながら台所に立つ。冷蔵庫を開けると、栞がくれた煮物がラップをかけて置いてあった。小鉢に移して、一人で食べた。うまかった。栞と一緒に食べたら、きっともっと美味しいのだろう。そう思うと、少しだけ喉の奥が詰まった。


