自転車を漕ぎながら、歩はまだ右手の感触を振り払えずにいた。
ペダルを踏むたびに、ガーゼの下の傷口がじんと疼く。けれど痛みよりも、その上に重なった別の記憶のほうが、ずっと生々しかった。
県道から住宅地に入ると、夕方の空気に変わった。どこかの台所から味噌汁の匂いがする。犬の鳴き声。子どもの自転車が路地を横切っていく。何もかもがいつも通りの夕暮れだった。
家に着いて、自転車を門の脇に停めた。垣根の向こうに、栞の姿が見えた。洗濯物を取り込んでいるところだった。白いシャツを丁寧に畳んで、かごに入れている。パートから帰ってきたばかりなのだろう、まだ外出着のままだ。
「栞さん」
声をかけると、栞が振り向いた。
「あ、歩くん。おかえりなさい」
「ただいまです」
自然に出た。おかえりとただいま。この言葉が日課になりつつあることに、歩はもう驚かなくなっていた。
「洗濯物、雨大丈夫でした?」
「ええ、すぐ止んだから、あまり濡れなかったみたいです」
「そうですか」
「お仕事お疲れさまです」
「栞さんこそ」
「これから晩御飯ですよね? 昨日、きんぴらを作りすぎたので、よかったら」
「いいんですか。ありがとうございます」
「少し待ってもらえますか」
栞は洗濯かごを抱えて自分の家に入り、しばらくして小鉢を持って戻ってきた。垣根越しに受け取る。いつものやり取り。いつもの距離。
けれど今日は、その距離が胸に沁みた。
「歩くん、手……どうしたんですか?」
栞の目が、歩の右手のガーゼに止まった。
「ああ、これ。倉庫で角材を運んでたら躓いちゃって。手の甲をちょっと切ったんです」
「大丈夫ですか」
「はい、大したことないです。浅い傷なんで、もうそんな痛くもないです」
栞は小鉢を渡した後も、歩の右手をじっと見ていた。それから、指先をそっと伸ばして、ガーゼの端に触れそうになって、止めた。
「ちゃんと消毒しましたか?」
「はい。叔父の奥さんが手当してくれて。沙世さんっていう人なんですけど」
「ああ、遠山さんの奥さん」
栞は頷いた。知っているらしい。田舎の町だ、克典ほどの人物の妻なら名前も知られているのだろう。
「よかったですね。気にかけてくれる人がいて」
栞の声は穏やかだったけど、どことなく、言葉の中に隙間を感じた。
「栞さん、お時間あります? ちょっとお茶でも飲みませんか」
歩が言うと、栞は少し迷ってから、「じゃあ、少しだけ」と頷いた。
歩の家の縁側に並んで座って、湯呑みを手にした。夕暮れの空がうっすらと茜色に染まっている。庭木の影が長く伸びて、二人の足元に届いていた。
「仕事、どうですか?」
「正直、まだよくわかんないです。今日も失敗しちゃったし」
歩は右手を軽く掲げて見せた。
「けど、悪いことばかりでもないっていうか。叔父さんは口うるさいけど面倒見てくれるし、田中さんって人も無口だけど仕事はちゃんと教えてくれるし。沙世さんも、こうやって怪我したら手当してくれたり、弁当作ってきてくれるし。こんなふうに気を向けてくれる人がいるなら、もうちょっと頑張れるかなって」
言ってから、歩は自分の言葉に引っかかった。沙世の名前を出したとき、自分はどんな顔をしていただろう。嘘はついていない。手当してくれたのも弁当を作ってくれるのも本当だ。けれど、今日あの事務所で起きたことの全部を言ったわけではない。
気になったが、栞は湯呑みを両手で包んだまま、庭を見ていた。
「歩くんは、人に恵まれてますね」
「そうですかね」
「そうですよ。歩くんの周りには、ちゃんと歩くんを見てくれる人がいる」
栞の声は静かだった。静かで、平らで、どこにも棘がない。それなのに、その言葉がどこか遠くを見ているように聞こえたのは、気のせいだろうか。
風が吹いて、庭木の葉がざわめいた。栞の髪が揺れて、首筋が見えた。何度も見ている横顔だけれど、今日はなぜか、目が離せなかった。
「栞さんも、ですよ」
「え?」
「俺のこと見てくれてる人。栞さんも、そうです」
栞が歩を見た。いつもの静かな目だったけれど、どこか、ものほしそうな揺らぎが見えた。そして、栞自身がそれに気づいたように、ふっと立ち上がった。
「そろそろ帰りますね。洗濯物、畳まないと」
「あ、はい」
「きんぴら、味が濃かったらすみません」
「いつも美味しいです」
栞は小さく会釈して、門口の向こうに消えていった。隣家の引き戸が閉まる音。それから、室内の明かりが灯った。
歩は縁側に残って、冷めかけたお茶を飲み干した。
夜。風呂に浸かりながら、右手を湯の上に出した。沙世のことを思い出す。
沙世と一緒にいるとき、心が軽くなる気がした。からかわれて、振り回されて、考える暇もなく反応させられる。楽しくて、ちょっと刺激的で、嫌なことも忘れてしまう。
栞と一緒にいるとき、気持ちが穏やかになる。多くを語らなくても、隣にいるだけで何かが満たされる。そんな安らぎを覚える。
どちらが好きだとか、そういう話ではなかった。ただ、二人の存在がどちらも手放せなくなっていた。
(どっちも人妻だしな)
湯船の中で、歩は笑った。笑うしかなかった。どうしろというのだろう。
この町に根を下ろすと決めたわけじゃない。流されてきて、流されるまま、叔父の仕事を手伝い、隣の人妻と仲良くなって、叔父の妻に弁当を作ってもらっている。
根を下ろすというのは、こういうことなのだろうか。自分の意志とは関係なく、いつの間にか足元に絡みついて、動けなくなること。
湯が冷めていた。
歩は風呂から上がって、冷蔵庫から栞のきんぴらを出した。炊飯器に入れっぱなしだったご飯も温めて、一人で食べた。
ごぼうと人参の甘辛い味が、口の中に広がる。
うまかった。いつも通り、うまかった。


