どのくらいそうしていたかわからない。
沙世の心臓の音が、歩の耳のすぐ下で鳴っていた。汗ばんでいた肌も乾いてきた。でも離れがたい。壁の時計の秒針がカチカチと刻む音が、少しずつ現実を呼び戻してくる。
最初に動いたのは、やはり沙世だった。
歩の肩を軽く押して、体を起こす。ソファーのスプリングが軋んだ。
「あーすごい、またいっぱい出したわねぇ。量だけは本当に一人前なんだから。ねえ、そこの布巾とってちょうだい」
「あ、はい」
沙世は手渡された布巾を使って、ショーツにかけられた粘液をソファにこぼさないよう、丁寧に拭った。
それからブラウスの前を合わせて、スカートの裾を直す。乱れた髪も手で梳いて、あっという間にいつもの沙世に戻ってしまった。その手際の良さがなんだか、さっきの行為がその程度のものに思えてしまって、少し切ない。
歩もソファーから体を起こして、ズボンを上げ、ベルトを締めた。念のためにソファーの座面を二人で無言のまま拭いた。沙世がクッションの位置を直してから、よしと頷き合う。それがなんだかおかしくて、二人して笑ってしまった。
沙世がコーヒーを二つ淹れてきた。一つを歩のデスクに置いて、自分は向かいの椅子に座った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
エアコンの唸り。窓を打つ雨音。さっきまでと同じ事務所、同じ机、同じ椅子。なのに空気がまるで違う。
沙世が先に口を開いた。
「……ごめんね」
歩は顔を上げた。
「言いすぎたわ。大人げなかった」
いつもの軽さではなかった。茶目っ気も、からかいも剥がれた、素の声だった。
「……俺も、すみません。カッとなって」
「歩が謝ることじゃないわよ。わたしが焚きつけたんだから」
「でも、俺も自分から——」
「それはちょっとビックリしたけどね」
沙世がふっと吹き出した。いつもの笑みとは違う、もっと正直な笑い方だった。
「ねえ、歩」
「はい」
「わたし、嘘ついてた。さっき」
「嘘?」
「気にしてないって言ったの。あれ、ちょっと……気にしてたわ。前のことも、今日のことも」
沙世はコーヒーカップを両手で包んだまま、天井を見上げた。
「自分でもよくわからないのよ。歩のことは甥っ子としか思ってなかったし、今だってそのつもりなの。でも、それだけじゃ説明つかないこともあるのよね、最近」
「沙世さん……」
沙世は自分の言葉を確かめるように、ゆっくりと話していた。普段の歯切れのよさがない。言葉を選んでいるのではなく、自分の気持ちの輪郭を、話しながら探っている。
「でもね、これ以上は本当にまずいと思ってるの。夫の事務所で、甥っ子とだなんて。洒落にならないでしょ?」
「そう……ですよね」
「だから、今日みたいなことは、もうしないわ」
歩は黙って頷いた。沙世の言っていることは正しい。それを拒める程の正当性も意志も、今の歩は持ち合わせていなかった。
「でもね」
沙世が立ち上がった。
「これからもお弁当は作るわよ。甘い卵焼きも、二人分だけ。それぐらいは、いいでしょう?」
「はい」
それだけ言うと、沙世は話はおしまいと立ち上がり、バッグを持って、玄関に向かう。そして、ノブに手を掛けたとき、ふと振り返った。
「克典さんてね――」
歩は顔を上げた。沙世は何か言おうとして、けれど、ふっと息をついた。
「……やっぱやめ。つまんない話だわ。ねえ歩、ちょっとこっちきて」
「え? なんですか」
言われた通り歩が近寄る。
「動いちゃだめよ」
そう言って、沙世はつま先立ちになった。柔らかな唇が、歩の頬に触れた。けど、一瞬のことで、すぐに離れてしまった。
「今日の歩は男らしかったから、おばさんからのご褒美よ」
「沙世さん……もうしないって、さっき」
「これはそういうのじゃないわよ。甥っ子への、親愛の表現。それじゃあね。明日もお弁当、持ってくるから」
「あ、はい」
沙世は軽くウインクして、出ていった。
歩は一人残された事務所で、頬に手を当てた。まだ沙世の唇の感触が残っている。その後は仕事に戻ったけれど、まるで集中できなかった。
定時になり、パソコンの電源を落として、エアコンを切って、最後に蛍光灯を消す。鍵をかけて外に出ると、雨はもう止んでいた。
自転車のタイヤが小さく飛沫をあげて走る。水たまりに街灯の光が揺れていた。
頭によぎるのはやはり沙世の顔だった。
「もうしない」と言われた。けれど帰り際に頬にキスをした。「親愛」だと言って。
あの人の本心は、結局わからなかった。わからないまま、頬だけが熱い。
家が見えてきた。垣根の向こうに、隣の家の明かりが灯っている。
自転車を庭に停めたとき、隣の勝手口が開いた。
「歩くん」
栞が顔を出した。エプロン姿に、手には小さなビニール袋を持っている。
「おかえりなさい」
「ただいまです」
「お茄子が採れたので。よかったら」
「ありがとうございます」
垣根越しに袋を受け取った。中に艶のいい茄子が三つ。いつものやり取りだった。
「焼いても美味しいですし、味噌汁に入れてもいいです」
「焼き茄子、いいですね」
「……それじゃあ」
いつもなら、もう少し話してくれるのに、今日はまるで歩から距離を取っているようだった。
「栞さん」
「……はい」
歩が呼び止めた。栞が振り返る。
「いつもありがとうございます」
「いえ、採れすぎるだけですから」
栞は小さく会釈して、勝手口に戻った。引き戸の閉まる音が、静かな夕暮れに吸い込まれた。
歩は茄子の入った袋を持ったまま、しばらく垣根の前に立っていた。
いつもと同じだったけど、やはり、お互い、ほんの少し違った。あの日、とっさに肩を掴んでしまった感触を、栞もまだ覚えているということだろう。
家に入って、茄子を洗った。半分に切って、フライパンで焼く。皮が焦げて、中から湯気が立つ。醤油を垂らして、そのまま食べた。
うまかった。
食べながら、ふと思った。
二人の女に、だめだと言われた。栞には「これきりに」と。沙世には「もうしない」と。言葉だけを聞けば、どちらも終わった話のはずだ。
どちらも人妻。この狭い町で暮らしていくというのならリスクでしかない。これで良かったのだろう
なのに、終わった気がしないし、そこには、まだ終わらせたくないと思っている自分がいた。
窓の外は暗い。雨上がりの空気が湿っぽく、虫の声がやけに近い。
隣の家の明かりが、カーテン越しにぼんやりと見えた。間にある垣根が、今日はいつもより高く見えた。

