翌朝、布団の上で目が覚めた。
窓を開けっ放しにしていたせいで、朝の湿気を含んだ風が部屋を満たしていた。首筋にじっとりした汗が張りついている。
視線を隣に向けると、そこには目を閉じた栞が静かに寝息を立てていた。お互いに服は着ていない。下着も脱いだままで眠ってしまったようだ。
手を伸ばして栞の唇にそっと触れる。指先に伝わる柔らかな感触が、昨日の出来事が嘘ではないことを教えてくれた。
できることなら、もう少し見守っていたかったけれど、そうもいかない。
「栞さん」
「ん……」
優しく肩をゆすってやると、閉じていた瞼がゆっくりと開く。そして、ぼんやりとした瞳が歩を見つけると、栞はふんわりと微笑んだ。
「おはようございます。歩くん」
これだけのやりとりで、なんともいえない幸せな気持ちになってしまった歩は、栞を抱きしめると、布団の中で栞のすべすべとした太ももに足を絡ませ、朝勃ちしていた息子を、お腹に押し付ける。
「あんっ……だめですよ、歩くん。起きて支度しないと、仕事に遅れてしまいます」
「あと少しだけ、あと三分でいいから、このままで」
「もう……歩くんたら」
歩が胸に顔をうずめると、栞は困ったように言って、その頭を優しく抱いてくれた。
その後、本当に遅刻してしまいそうだと栞に手を引かれて、歩はしぶしぶと布団から出ると、二人で顔を洗って着替えて、簡単な朝食をとってから、栞は誰にも見つからないように、こっそりと勝手口から外に出た。
「それじゃあ、わたしはいちど家に戻りますね」
「ええ、それじゃあ、また」
歩がそう言うと、栞もはにかんで頷く。
「今日は、暑くなりそうですね……お仕事、頑張ってください」
「はい」
そう言って出て行く栞の後ろ姿は、今までと変わらないように見えたが、振り向いた彼女の微笑みから歩は目が逸らせなかった。
*
事務所に着くと、すでに沙世がいた。
デスクに座って、帳簿をめくっている。克典の弁当と、もう一つ——歩の分が、デスクの隅に包みのまま置いてあった。
「おはよ」
沙世が顔を上げた。書類から目を離して、歩を見た。二秒。三秒。
「なんかご機嫌じゃない?」
「……そうですか?」
「そうよ。口元が緩んでる」
歩は慌てて口元を引き締めた。沙世は鼻で笑った。
「隠すの下手ねえ」
克典と田中さんは朝から現場に出ていた。建材の納品が重なって、午前中は戻らないらしい。事務所には歩と沙世の二人きり。この状況も、もう珍しくはない。
昼前に、沙世が弁当を広げた。いつものように二人きりの昼食だった。
「ねえ歩」
沙世が箸を止めて、歩を見た。
「はい?」
「栞さん、元気?」
あまりに唐突だったせいで、歩の箸が止まってしまう。ほんの一瞬だったが、沙世はそれを見逃さなかった。
「……元気ですよ」
「ふうん」
喉が詰まりかけたが無理やり飲み込む。沙世は自分の弁当に目を戻すと、それ以上は何も言わなかった。
歩は次に食べようとしていた卵焼きを見た。沙世が自分のために作ってくれる、この甘さの意味を、歩はまだうまく受け止められていなかった。
*
午後、克典が戻ってきた。
田中さんは配達の続きで直帰するらしい。克典はデスクに座って、取引先への電話を始めた。歩は帳簿のPC入力を続けながら、克典の声を背中で聞いていた。
電話が終わって、克典が沙世に声をかけた。
「今度の商工会の集まり、嫁さん連れてこいって言われとるんだけどな」
「行くわよ。いつ?」
「来週の土曜。まあ、お前が来ると話が早い」
克典が笑った。
「みんなお前の顔を見たがるからな」
こんな田舎だと沙世のような都会的な美人は目立つし、自分の妻がこれだけ綺麗で、周りがそれを認めていることに優越感があるのだろう、歩にもそれはわかった。
沙世も「はいはい、お化粧頑張らせてもらうわ」と返した。軽い声はいつもの調子だったけど、そこに、わずかな間があったことを歩は気づいた。しかし、克典は気づいていないようだった。
「ところでお前、最近ちょっと疲れた顔しとるぞ」
克典が書類に目を落としながら沙世に言った。
「ちゃんと寝とるか? 歳も歳なんだから、無理するなよ」
それはきっと、ただ妻を労る言葉だったのだろう。沙世も「はいはい」と軽く言った。
やりとり自体はよくありそうな夫婦の会話なのに、歩はさっきから、どこかボタンを掛け違えているような、なんともいえない居心地の悪さを感じていた。
克典は何も気づかずに、電話をかけ直している。
歩は帳簿の数字を打ち込みながら、何も言えなかった。克典に悪気がないから、なおさら言葉が見つからなかった。
*
それからすぐ、克典が出かけために支度をする。今日は事務所に戻らず直帰すると言っていた。
「歩、戸締まり頼むぞ」
「はい、わかりました」
玄関のドアが閉まり、少しして克典の車のエンジン音が遠ざかっていく。事務所に沈黙が降りた。
歩は帳簿の最終チェックをしていた。沙世は経理書類をファイルに戻している。それもいつもの風景だが、妙な緊張感があった。
沙世が書類をファイルに差し込む手を止めた。
「ねえ歩」
「はい」
「わたし、老けた?」
「いえ、全然、沙世さんは昔のままですよ」
「嘘つき」
沙世が笑うと、ファイルを棚に戻して、デスクに寄りかかった。腕を組んで、窓の外を見ている。
「あの人ってね」
「……はい」
歩の背筋が伸びた。
「わたしのこと、綺麗だから好きになったのよ」
「そりゃあ……男ってそういうもんじゃないですか。綺麗な女性が嫌いな男なんていませんよ」
「見た目が好きなのと、見た目だけが好きなのって、違うわよねぇ」
微妙に答えをはぐらかしてみたが、無駄だった。
「あー……いや、どうですかね」
沙世が小さく笑った。
「まあね、わたしもそれがわかってて結婚したんだけど」
「はあ」
「東京にいた頃はね――まあ、好き勝手やってたのよ。若くて、顔がよければ、困ることなんてなかったから」
沙世の声は淡々としていた。歩も、若い頃の沙世ならさぞ男からモテたのだろうと思った。
「でも東京って、そんな女はいくらでもいるじゃない? 次から次に、もっと若い子が出てくる。二十五過ぎたら、もう入れ替えの対象よ」
何も言えない。沙世が自分の過去をこんなふうに話すのは初めてだった。
「だから早めに見切りをつけたの。克典さんがわたしのルックス目当てなのはわかってた。わたしは克典さんがお金持ちなのをわかってた。お互い様。取引みたいなもんよね」
沙世が振り返った。いつもの余裕のある笑み。けれどその奥に、歩がこれまで見たことのないものが浮かんでいた。
「べつに後悔してるとかじゃないのよ? じっさい、長いこと夫婦やってきたから、今はそれだけじゃないし。ただ……ね」
沙世が腕を組み直した。
「なんかねぇ、自分が歳とってきたなって思うと、ちょっとねぇ」
沙世にしては歯切れの悪い言葉だったが、それだけ言うと、またいつも通り、余裕がある大人の女の顔に戻った。
「つまんない話ね。忘れてちょうだい」
「はあ」
栞のことが頭をよぎった。
「沙世さん」
「なに」
「卵焼き、明日はもっと甘いやつがいいです」
けれど口にしてしまったのは、幼い頃から自分に目をかけてくれていた沙世の優しさを知っていたからだろう。
沙世が目を丸くした。それから、ふっと息を吐いた。
「……なにそれ。慰めてるつもり?」
「つもりっていうか」
「下手くそねえ」
沙世が笑った。
「甘いの、入れといてあげるわよ。感謝しなさいよ」
事務所の鍵を閉めて、外に出た。夕陽が沙世の横顔を照らしていた。この町の誰とも違う横顔。十数年ここにいて、それでもどこか余所者の空気を消しきれない横顔。
「じゃあね」
沙世が手を振って、反対方向に歩いていった。歩はその背中を見送った。夕陽に照らされた背中は細くて、すっと伸びていて、歩には昔と比べて彼女の魅力が衰えたとは思えなかった。それが甥の贔屓目なのかは、よくわからない。
*
その夜、暗い部屋で、自分の腕の中に収まる栞の体温を感じながら、かすかに残る沙世への気持ちをどうすればいいのか、歩はまだ、わからないでいた。

