克典がいなくなると、リビングの空気が変わった。
壁掛けの時計の秒針が動く音がやけにはっきり聞こえる。歩はソファに座ったまま、湯呑みを手で包んでいた。
沙世は向かいのソファに座って、自分の湯呑みに口をつけた。それから歩を見て、少し笑った。
「肩の力、抜けた?」
「え?」
「さっきからずっと、背筋ぴんとしてたでしょ。あの人の前だと緊張するのね」
歩は自分の姿勢を意識して、少し背中を丸めた。確かに克典がいた間、ずっと体が固かった。
「昔からそうだったわよね。あの人の前だと借りてきた猫みたいになるの」
「覚えてるんですか、そんなこと」
「覚えてるわよ。私、あなたの面倒よく見てたんだから」
沙世は湯呑みをテーブルに置いて、少し体を横に向けた。ソファの肘掛けに腕を預けて、歩を眺めるような姿勢になった。値踏みでもされているような視線に背中がそわりとした。
「歩が、まだ小学生の頃だったわね。あの人に『男の子なんだからしっかりしろ』ってどやされて、庭でいじけてたことがあったわね」
「……全然覚えてないです」
「そうでしょうね。でも私は覚えてるの。庭の隅で、声を出さないようにうずくまって、子供なのに人に見られたくないんだなって思ったわ」
沙世の声は軽かった。昔話を楽しんでいるような口ぶりだった。でも、その目は笑っていなかった。歩の顔をまっすぐ見ていた。
「それで私が隣に座ったの。何も言わないで。そしたらしばらくして、歩が私の服の裾をこう、きゅっと掴んだのよ。小さい手で」
沙世が自分の手を見た。桜色の爪が、艷やかな光沢を放っている。
「あなたって、昔から誰かに人に甘えるのが下手なのよね」
歩は何も言えなかった。そうなのだろうか、自分は誰かに甘えたいと思っているのだろうか。自分のことなのにわからない。
「……沙世さんて、昔からよく俺の相手をしてくれてましたよね」
「そうねぇ、わたしもあの頃はこっちに嫁いで来たばかりだったし、知り合いもいなかったから」
沙世は、それ以上は言わなかった。首を傾けて、髪が肩から流れて、胸元に落ちた。何気なく組まれた足はすらっと細長くて、まるで写真のモデルのようだ。
昔からそんな気がしていたけど、大人になってから改めて、沙世がこの辺りに住む女性とは違う人種だと感じた。こんな田舎よりも都会の方が似合っているだろう。こんな何もない辺鄙な田舎にはもったいない気がした。
窓の外で風が吹いて、庭の木の枝が揺れた。
歩は沙世の横顔を見ていた。さっきまでの茶目っ気のある叔母の顔とは少し違う。窓の光に照らされた横顔には、この家の中で長い時間を過ごしてきた人間の静けさがあった。午後の光が首筋を照らして、産毛が金色に光っている。
「沙世さんは、この町、退屈じゃないですか?」
聞くつもりはなかった。口から勝手に出た。
沙世が歩の方を向いた。一瞬、目が大きくなった。それからゆっくり、口元だけで笑った。
「どうしてそう思うの?」
「いや、なんとなく……すみません、変なこと聞いて」
「ううん。変じゃないわよ」
沙世はそれだけ言った。肯定も否定もしなかった。ただ目を細めて、窓の外に視線を移した。
そのとき、玄関の方で引き戸が開く音がした。
「おう、悪い悪い。思ったより長くなった」
克典が戻ってきた。リビングに入ってくると、何事もなかったかのように沙世が立ち上がった。
「お茶、淹れ直すわね」
「ああ、頼む」
歩は少し腰を浮かせた。
「叔父さん、そろそろ俺も失礼します。長居しちゃって」
「もう帰るのか。飯でも食っていけばいいだろ」
「いえ、また今度の機会に」
「そうか。まあいつでも来い」
玄関で靴を履いて外に出ると、沙世が一緒に出てきた。門まで見送ってくれるらしい。
克典と話したせいか、どっと疲れて肩が重かった。歩は無意識に首を傾けて、凝りをほぐそうとした。
沙世がそれを見て、少し立ち止まった。
「歩」
呼ばれて振り向く前に、沙世の手が、歩の肩にそっと触れた。
優しく、労わるように撫でられた。背中に柔らかなものも感じた。
「無理しなくていいからね」
短い言葉だったが、沙世の声は染みた。
振り向くと、沙世の目が近かった。上向きに巻いた睫毛は長く、瞳の中には優しい光が湛えられていた。
歩は息を止めていた。沙世の顔がこんなに近いのに、目を逸らせなかった。
「またいらっしゃい。あの人がいないときでもいいから」
「……はい」
それだけ返すのが精一杯だった。
沙世の手が離れた。離れた瞬間に、空気が軽くなった。沙世はもう、さっきと同じ、掴みどころのない軽やかな顔に戻っている。
「じゃあね、気をつけて帰るのよ。」
門の前で沙世が手を振った。歩は頭を下げて、坂を下り始めた。
来たときよりも風が温くなっていた。田んぼの匂いも濃い気がする。
歩は坂を下りながら、さっきまで重かった肩が、少しだけ楽になっていることに気づいた。


