【28話】二人の人妻の温もり【不倫官能小説】

▶ 目次に戻る

 梅雨が明けて、町がいきなり夏になった。

 歩が事務所に着くと、もう沙世がいた。

「おはよ」

 顔も上げずに言う。電卓を叩く指が止まらない。歩は鞄を置きながら、その横顔をちらりと見た。今日はブラウスの袖をまくって、髪を高く結っている。うなじが見えていた。

「おはようございます」

 それだけのやりとりで、気持ちが浮かれてしまう。歩は自分でも、そのことに気づいていた。

 あの日からずっと、こうだった。

 朝は事務所で沙世と二人になり、夕方は家で栞と過ごす。同じ一日の中に、まったく違う二人の女がいる。どちらも人妻で、どちらとも寝た。どちらも自分のものではない。

 そして、どちらも手放したくない。

 最低だ、というのは何度も思った。けれど止め方がわからない。考えること自体が、もう惰性になりつつあった。

 克典は朝から現場、田中も配達で出ている。昼前にどちらからも「直帰する」と連絡が入って、結局、昼は沙世と二人になった。

 昼。

 沙世が弁当を広げて、歩のデスクの脇に椅子を寄せてきた。二人で食べるのも、もういつものことだった。

「ねえ歩、ちょっと聞いてる?」

物思いに耽っていたせいで会話を聞き流してしまい、沙世が少しムッとしたように言う。

……聞いてますよ?」

「もう、目が泳いでるわよ」

 沙世が笑って、歩の頬を指でつついた。

 その指が頬から離れる、その瞬間だった。歩は、なかば反射のように、その手首を取った。

……歩?」

 沙世の声が止まった。

 自分でも、どうしてそうしたのかわからなかった。ただ、近くにある指の感触と、髪の匂いと、ブラウスからのぞくうなじが、急に全部、頭の中でひとつになった。

 歩は身を寄せて、沙世の唇に自分の唇を重ねた。

「ん……っ」

 昼の事務所で。誰もいないとはいえ、いつ誰が入ってくるかわからない場所で。沙世は一瞬だけ身を引きかけたが、すぐに力を抜いた。

 触れるだけのつもりだった。けれど、一度離れて、また重ねたとき、沙世のほうが歩の下唇をやわらかく挟んだ。その唇にはいつも、何か甘いものの残り香がある。歩はそれを追いかけるように、もう一度深く重ねた。

 沙世の手が、歩のネクタイの結び目に触れた。引き寄せるでもなく、ただ指先で布をたぐる。その仕草だけで、歩の喉が鳴った。

……こんな昼間から」

 唇を離した沙世が、息を整えながら言う。けれど目はとろりと潤んでいて、言葉ほどには咎めていなかった。

「すみません」

「謝らなくていいわよ。若いものね、あの時のこと、思い出しちゃった?」

 そう言いながら、沙世のほうから歩の頬を両手で包んだ。親指の腹で、歩の唇のかたちを、確かめるようになぞる。

「ほら、口、もうちょっと力抜いて。……そう」

 教えるみたいな、からかうみたいな声。歩がそのとおりにすると、沙世が満足げに目を細めて、また唇を寄せてきた。今度は時間をかけた。沙世の舌が、歩の唇の合わせ目を、そっと割って入ってくる。歩はそれを受けて、おずおずと応える。くちゅ、と小さな音が、二人の間だけで鳴った。

 歩の手が、無意識に沙世の腰へ回った。ブラウス越しの体温が、手のひらにじわりと伝わる。そのまま、背中の窪みをなぞるように指を滑らせると、沙世の肩がびくりと跳ねた。

……っ、もう。どこ触ってるのよ」

 咎めながら、沙世は逃げなかった。むしろ、歩の手の動きに合わせて、ほんの少しだけ背を反らせた。歩の指が、ブラウスの裾から、素肌の腰に触れる。汗ばんだ、なめらかな感触。

 その時、外で、軽トラのエンジン音がした。

 二人はぱっと離れた。けれど誰の車でもなく、ただ前の道を通り過ぎただけだった。沙世が、ふう、と長く息を吐いて、乱れた髪を結び直す。指がまだ少し震えていた。

「ばか。心臓に悪いわ」

「沙世さんだって乗り気だったじゃないですか」

「あら、わたしのせい?」

 沙世は箸を取り直して、何事もなかったように食事に戻る。けれど、空いたほうの手は、まだテーブルの下で歩の太ももに軽く乗ったままだった。離さなかった。歩もまた、それをどけようとはしなかった。

 午後は二人とも黙々と仕事をした。

 歩は帳簿を打ち込み、沙世は書類を整理していく。エアコンの音と、キーボードの音。それだけだ。

 でも、歩はずっと意識していた。背中側の沙世の気配を。書類を取りに立つたびに、沙世が一瞬こちらを見るのを。昼間の感触が、まだ唇に、腰を撫でた指先に、残っている。

 帰り際、沙世が日傘を取りに立って、歩の背後を通った。

 すれ違いざま、沙世の手が歩のうなじをそっと撫でた。指先が、襟足の生え際を一度だけたどる。それから耳のうしろを、ほんのかすかにくすぐって、離れていった。

「お疲れさま」

……お疲れさまです」

 歩が振り返ると、沙世はもう戸口にいて、日傘を開きながら片手を上げた。

「また明日ね」

 その言葉に含まれた彼女の気持ちが歩にもわかってしまう。それがいちばん厄介だ。

 夕方、家に帰る前に、垣根の向こうから声をかけられた。

「歩くん」

 栞だった。庭で洗濯物を取り込んでいる。歩が自転車を止めると、栞はタオルを抱えたまま、少しだけこちらに近づいてきた。

「ナスをたくさんもらったんです。揚げ浸し、作りすぎちゃって」

……それは、つまり」

「食べていきますか」

 栞の口元が、ほんの少し緩んだ。歩を見るときだけの笑い方だった。

「いただきます」

 食い気味に返答してしまった。これでは下心が丸出しだと自分でも思う。栞はそれに気づいたのか、少し恥ずかしそうに目を伏せてタオルを抱え直した。

「じゃあ、勝手口から」

 台所に上がると、栞が皿を並べていた。揚げ浸しと、冷奴と、白い飯。歩はいつもの椅子に座って、その背中を見ていた。

 エプロンの紐が、腰のところで結ばれている。うなじにほつれた髪が一筋落ちていた。栞は普段、感情をほとんど表に出さない。けれど歩と二人きりのときだけ、その背中がほんの少しやわらかくなる。それが、歩にはわかるようになっていた。

スカートを丸く押し出す、柔らかそうなヒップラインを見ていると、たまらなくなってくる。

「歩くん、お茶——

 いつの間にか近づいていた歩が、振り返った栞の手首を握る。

……歩くん?」

 栞の目が、戸惑って揺れた。

 歩は何も言わずに、栞を流しの脇の壁ぎわへ——窓から見えない物陰へ、引き寄せた。栞は抗わなかった。

「だめですよ。こんな、明るいうちから」

 言葉とは裏腹に、栞は逃げなかった。

 歩は栞の頬に手を当てて、顔を上向かせた。栞の睫毛が、おそるおそる伏せられる。歩は、その閉じた瞼に、まず唇で触れた。それから頬、そして唇の端へ。栞が小さく息を吸ったのと、歩がその唇を塞いだのは、ほとんど同時だった。

……んっ」

 栞の唇は、いつも少しだけ抵抗する。声を出すまいとして、鼻から抜ける息だけが漏れる。その息づかいが、かえって歩を煽った。最初は触れ合わせるだけ。栞の唇はやわらかくて、ほんのり冷たさが残っていた。一度離して、栞の表情を確かめてから、歩はもう一度、今度は深く重ねた。

 歩が下唇を軽く食むと、栞の体がぴくりと震えた。それを許しと受け取って、歩は舌先で、栞の唇の合わせ目をそっとなぞる。栞は迷うように、けれど拒まずに、わずかに唇をほどいた。

「ん、ふ……っ」

 歯の隙間から、歩の舌が入る。栞の舌が、おずおずとそれに応えた。普段あれほど言葉少ない人が、こうして触れ合うときだけ、情欲を滲ませる。絡めるとすぐに、栞の喉の奥で、抑えきれない声がかすかに鳴った。くちゅ、と濡れた音が、二人の唇の間で響く。

 栞の手が、歩のシャツの背中を、すがるように握りしめる。逃げないどころか、引き寄せていた。壁に背を預けた栞の体が、歩のほうへ少しずつ傾いてくる。エプロン越しに、栞の胸の柔らかさが歩の胸板に押し当てられた。

 歩は片手を栞の腰に回し、もう片方の手で、うなじに落ちたほつれ毛を払った。指が、汗ばんだ首筋に触れる。栞の体が、びくりと跳ねた。歩はそのまま唇で愛撫を続ける。栞の頬から、顎の線を辿り、首筋へと滑らせる。そこが弱いのか栞が、声を堪えるために、歩の肩口に額を強く押し当てた。

……っ、はぁ……んっ」

 堪えきれずに漏れた、か細い喘ぎ。それが、どんな言葉よりも歩の胸を締めつけた。

 きっと栞は歩が求めればどこまでも受け止めてしまう人だった。経験豊富な沙世とはまた違う、その一途さが愛おしく思えてしまう。

……歩、くん」

 キスの合間に、栞が自分の名前を呼ぶ。それだけで、歩の理性がぐらりと傾いた。歩は栞の顔をもう一度上向かせて、今度は栞のほうが、自分から唇を寄せてきた。短いキスを、ついばむように何度も繰り返す。エプロンの裾を握る手に、ぎゅっと力がこもっていた。

 窓の外で、近所の子どもの声が遠く聞こえた。

 栞がはっと身を硬くして、歩の胸を押した。

……だめ。だれか、聞こえたら」

「平気ですよ。ここからは見えない」

「もう……歩くんは」

 栞は俯いて、けれど歩の腕の中から出ていこうとはしなかった。乱れた呼吸を整えながら、エプロンの裾を握っている。何か言葉にできないものを、その手のひらに押し込めているみたいだった。

 歩は、最後にもう一度キスをした。栞が、目を閉じてそれを受けた。睫毛が、かすかに震えていた。

……ご飯、冷めちゃいますね」

「そうですね」

 栞が小さく笑って、歩の胸をそっと押した。離れたくなくて、でも離れなきゃいけなくて、そんな気持ちが両手のひらに乗っていたのが歩にもわかった。

 食べ終わって、二人で麦茶を飲んだ。

 外はまだ明るかった。栞は窓の外を見ながら、グラスを両手で包んでいた。さっきの熱が、まだ胸に残っている。

「歩くん」

「はい」

「最近、少し疲れてるみたいですけど。事務所、忙しいですか?」

「えっ……いや、そんなことないですよ」

「ほんとですか」

 栞がじっと歩を見た。何か見透かすような色が、その目にあった。歩は心臓が跳ねた。栞が沙世のことを知っているはずはない。ないのに、こういうとき、つい身構えてしまう。

「ほんとです」

「そうですか、ならいいんです」

 栞は少しだけ首をかしげて、引いた。それから、グラスを置くとき、その手をテーブルの上で、歩の手の近くに止めた。

 ほんの数センチ。

 歩は、その指に自分の指を重ねた。栞は手を引かなかった。指の背を、歩の指がゆっくりなぞる。栞の睫毛が、一度だけ伏せられた。

……今日は、もう帰りますか?」

 栞が、外を向いたまま言った。声は静かだったが、その「帰りますか」には別の意味が混じっていた。

「いえ」

 歩は言った。

「もう少し、いてもいいですか」

 栞が歩を見た。そして、何も言わずに、握られた手をほんの少しだけ握り返した。指が、ためらいながら、歩の指のあいだに差し込まれていく。

 その夜、家に帰ってから、歩は布団の上で天井を見ていた。

 沙世と栞に触れた感触がまだ残っている。二つは混ざらないまま、両方ともそこにある。

 二人とも、何も言わない。自分も言わない。言ってしまえば、たぶん終わる。今のこの、後ろめたくて、それでいて手放せない時間が。

 だから、誰も言わない。

 改めて最低だ、と思う。けれど、思いながら、明日の朝にはまた事務所へ行く自分のことも、夕方にはまた垣根の向こうを気にする自分のことも、もうわかっていた。

 歩は寝返りを打って、目を閉じた。夜の虫の声が、窓の外で続いていた。

タイトルとURLをコピーしました