七月に入って晴れる日が増えてきた。
事務所の窓から見える田んぼは、稲が青々と伸びて風に揺れている。朝の空気にはまだ湿気が残っているが、日が差すと一気に蒸す。
帳簿の入力をしていた歩は、数字を打ち込みながらも、頭の中には栞の姿。あの日から、彼女のことばかり考えてしまうようになっていた。
「歩、ちょっと。この伝票、金額合ってる?」
沙世の声で我に返った。
「あ、すみません。どれですか」
「これ。今月のここの数字、おかしくない?」
沙世が伝票を持ってデスクに来た。確認すると入力ミスだった。どうやら先月の伝票と間違えて入力していたらしい。
「すみません! すぐに直します」
「最近、なんだか、いつもぼんやりしてない?」
「……そうですか?」
「そうよ。ここ数日でミスが増えたわよ。大丈夫? もしかして体調が悪い?」
沙世は心配げに歩の顔を覗き込んだ。その瞳から純粋に自分を心配してくれている優しさを感じて、歩は罪悪感で沙世の視線から逃げるように「気をつけます」と画面に向き直った。沙世はそれ以上追わなかったが、じっと歩のことを見つめる。
昼になり、いつも通り弁当を沙世と向かい合って食べる。ふと、前に彼女から言われた言葉が頭をよぎる。
――だって、栞さん、人妻でしょう?
あのときは沙世も冗談混じりだったし、まさか自分がお隣の人妻にこんなに入れ込んでしまうとは思ってもいなかった。
そのせいか、以前の一件もあり、最近は沙世と一緒にいると後ろめたさまで感じてしまう。
「そういえば、明日は克典さん、午後から外出だったわね。田中さんも一日いないし。一人になるけど大丈夫?」
「大丈夫ですよ。もう慣れましたから」
「そう。じゃあお弁当だけ届けに来るわね」
「ありがとうございます」
沙世が卵焼きを口に入れて、目を細めた。美人だけど、ふにゃりと目尻が下がった顔が可愛らしいと思った。歩も卵焼きを口にする。しかし、いつもより甘くない気がした。
五時に仕事が終わって、自転車で帰路についた。日が長くなり、夕方でもまだ明るい空の下を走りながら、家が近づくにつれて胸のあたりが騒ぐ。
家に着いた。垣根の向こうに、栞の姿が見つけてしまう。庭先で洗濯物を取り込んでいる。夕陽が低くなって、栞の横顔に橙色の光が当たっていた。
「栞さん」
「あ、歩くん。おかえりなさい」
「ただいまです」
「今日は……お天気がよかったですね」
「え、ああ、そうですね」
歩はそう言いながら、シャツを畳んでかごに入れる栞を見つめた。
きっと、少し前だったら気づかなかっただろう。彼女の穏やかな表情に沈んだものを感じた。
あまり感情を表に出さない栞だが、いつも見ているせいで、些細な変化が分かるようになったのかもしれない。
「あの、栞さん。なんだか元気がないみたいですけど……大丈夫ですか?」
「いえ、大丈夫ですよ」
嘘をついている声だった。歩には、もうそれがわかってしまうほどに、彼女との距離は近づいてしまった。
「……さっき、電話があって」
栞は洗濯を置くと、沈もうとする夕日をぼうっと眺めた。
「主人から。来月も帰れなくなりそうだって」
「……そうですか」
「現場が延びたみたいで。まあ、仕方ないですよね、大事なお仕事ですから」
栞は笑った。穏やかに。けれど、その笑い方が歩の胸を締めつけた。
「慣れました。一人でいることには、もう慣れちゃいました」
けれどそれは諦めの響きに似ていた。夫に見てもらえないことも、一人で夕飯を作って、一人で食べて、一人で布団に入ることも。
「あの……お茶でも飲みませんか。うち、上がってください」
歩が言った。栞は少し迷ってから、静かに頷いた。
それから、居間に座って、向かい合ってお茶を飲んだ。畳の上に夕陽の影が伸びている。
互いにしばらく黙っていた。歩は何を言えばいいのかわからなかった。旦那さんも大変ですね、なんて言えない。寂しいですね、も違う。慰めの言葉はどれも嘘くさくて、口から出なかった。
栞が湯呑みを両手で包んだまま、庭を見ている。その横顔に、夕陽が当たっている。その表情はあまりにも儚げで――。
「俺は……栞さんのこと見てますから」
言葉がこぼれ落ちた。考えて出したのではない。ただ、出てしまった。
「え……」
栞の手が止まった。
驚きと、戸惑い。静止していた水面が揺れたような——そんな目をしていた。
歩も自分が何を言ったのか、遅れて理解した。今なら、まだ言い訳をする逃げ道もあった。
けれど、撤回したくなかった。本心だったから。
栞は何も答えなかった。
長い沈黙だった。夕陽が沈んで、居間が薄暗くなっていく。どこかでヒグラシが鳴き始めた。
投げつけられた言葉は波紋を広げ、彼女の瞳がみるみるうちに潤んでいく。唇が微かに震えている。けれど、声は出なかった。
歩の体が動いていた。
立ち上がって、栞の前に膝をついて、両腕で抱きしめた。
栞の体は細かった。華奢で、壊れそうなほどに。腕の中で、栞が小さく息を呑んだ。それでも、押し返さなかった。力が抜けたように、額を歩の胸に預ける。栞の髪から日向の匂いがした。
だんだんと、栞の体から緊張が抜けて、呼吸がゆっくりと整っていくのを、胸の中で感じていた。
栞の顔を見た。頬に涙の筋が一本、光っている。
歩は顔を近づけた。覗き込んだ瞳が揺れる。ほんの数センチ、あのとき拒まれた距離まで近づいた。
栞は目を閉じた。
「ん……っ」
唇が触れた。栞の唇はふにゅりと柔らかかった。
彼女は少し震えていた。ただ触れ合わせるだけのキス。唇の形を確かめるように。ゆっくりと、ゆっくりと。
「んっ……ちゅっ……ぁっ……歩、くん……」
一度、唇をはなすと、互いの吐息が混じる距離で見つめ合う。潤んだ瞳が歩を見ている。生娘のように頬はほんのりと赤らんでいる。歩はもういちど唇を重ねた。
「ちゅっ、んぅ……ちゅっ……ふぅん……」
今度は彼女の柔らかい唇を、ついばむように、自分の唇で挟んで愛撫する。唇の内側は唾液で濡れていて、滑らかだった。
「んっ……ちゅっ、ぁっ……んっ、んんっ……」
舌を伸ばすと、栞の舌がおずおずと触れてきた。最初はさきっちょで探るように突いて、擦り合わせ、やがて絡み合う。
「んっ、れゅっ……ちゅっ……んんっ、あゆむ……くん……んふっ、ちゅっ、はぁ……」
栞の手が、歩の背中に回され、指が、シャツの布を掴んだ。
心臓の音が聞こえる。それが自分のものか、栞のなのか、頭の中まで響くその音に熱いものがこみ上げてくる。
キスを続けたまま、歩は栞の体をゆっくりと傾けた。畳の上に、栞の背中がそっと降りる。黒く艷やかな髪が畳の目に沿って広がった。
歩が覆いかぶさるようにして、栞を見下ろした。栞は歩を見上げている。涙の跡が残った頬を拭ってやる。薄暗い居間に、栞の白い肌がぼんやりと浮かんでいた。
彼女はもう「だめ」とは言わなかった。

