七月も半ばに入ると、朝から空気が重かった。
歩が勝手口から外に出ると、垣根の向こうで栞が洗濯物を干していた。それをぼんやり眺めていると目が合った。歩を見た栞の口元が柔らかくなる。
栞と一線を越えた夜から、もう何日か経っていた。あれ以降、二人の関係は確かに変わった。けれど、お互い、できるだけ今までと同じように過ごしている。
名前のない関係だった。名前をつけたら、その先を考えなければならない。栞には夫がいる。月に一度帰るかどうかの夫が。その夫の名前すら、歩は知らない。どう言い繕っても、ただの間男でしかない。
だからこそ、今はまだ、この時間を壊したくなかった。
*
事務所に着くと、沙世がいた。
経理書類を広げて、電卓を叩いている。歩が「おはようございます」と言うと、沙世は顔を上げて「おはよ」と返した。
克典は午前中だけ事務所にいて、昼前に取引先へ出かけた。田中さんは配達で朝から不在。自然と昼には歩と沙世の二人きりになるわけだが、食事中、沙世は何やら探るような視線を歩に向けていた。
「ねえ歩」
「はい」
「最近、どうなの?」
沙世が箸で煮物をつまみながら言った。
「……どう、とは?」
平静に、努めて自然に返すが、その時点でもうボロが出ている気がした。
「調子よ、調子」
「まあ……普通ですよ? いったて普通」
「ふぅん、そうなんだ」
「ええ、そうですよ」
沙世は薄く笑っているけれど、歩は自分がちゃんと笑えているか自信がなかった。
「そういえば、このあいだ、スーパーで買い物してるとき栞さんと会ったわよ」
「……へぇ……そうなんですか、狭い町ですからね」
「栞さんも、旦那さんがずっと単身赴任で大変よね」
「そうみたいですね」
「けど、なんだか彼女、前に見たときよりも、綺麗になってたわ。なんでかしらね」
「……そうなんですか? あー、俺にはちょっと分からないですけど」
「男って鈍感よねぇ」
「はっ、はは……そうですね」
今日の弁当は味がよくわからなかった。
*
午後、克典が戻ってきた。
上機嫌だった。取引先との打ち合わせがうまくいったらしい。デスクに座って、沙世に茶を頼みながら、先週の商工会の話をし始めた。
「この前の集まり、評判良かったぞ。やっぱりおたくの奥さんは別格だってな」
「あら、嬉しい」
沙世が湯呑みを克典のデスクに置いた。そこまでいつも通りだった。
「そういえば、山下の嫁さんが子どもを連れてきてたなあ」
しかし、椅子の背にもたれた克典がぽつりとこぼした一言に、沙世の眉が一瞬ぴくりと動いたのを歩は見逃さない。
「もう四つだったか、しばらく見ないうちに、ずいぶんと大きくなったもんだ」
沙世は「そう」と返して、自分のデスクに戻った。
克典も、また電話を取って、別のところかけ始める。
(なんか……なんだろう、この空気……)
最近、叔父夫婦の会話から剣呑な空気を感じ取っている歩は、背を丸くしてPCの画面を見ていた。
克典が電話を終えて、立ち上がった。どうやら出かけの用件らしい。
「じゃ、歩、戸締まり頼むぞ」
「あ、はい」
克典が出ていった。エンジン音が遠ざかる。
事務所に沈黙が落ちた。
沙世は書類をめくり続けていた。歩は帳簿を打ち続けていた。キーボードを叩く音と、紙がめくれる音だけが、事務所に響いている。
沙世が書類をファイルに戻して、椅子の背にもたれて天井を見上げた。
「山下さんのところは娘さんがいていいわよねぇ」
明らかに聞こえるように言っている。
歩は手を止めて沙世を見た。沙世は天井を見たまま、椅子をゆっくり揺らしている。
「えっと……沙世さん」
「なによ、そんな顔しないでよ。べつにそういう湿っぽい話じゃないから」
沙世が顔を下ろして、歩を見た。笑っていたが、どこか自嘲気味でもある。
「ただの感想。子どもがいると賑やかでいいなって、それだけ」
もちろん、それだけではないことは歩にもわかる。沙世と克典は結婚して十年以上になるが、まだ子どもがいない。
それ以上何も言わなかった。いつもなら帰る時間になっても、今日はなかなか帰ろうとしなかった。そこからは無言の時間が続き、いい時間になった頃に、ようやく沙世が椅子から立ち上がって、窓を閉め始めた。
「帰りましょ。暗くなる前に」
ふたりで事務所の鍵を閉めて、外に出た。
沙世と分かれた歩がひとり自転車を漕いでいると、蝉の声が道の両側から降っていた。
*
翌日も朝からなんだか空が低く感じた。
歩が事務所に着くと、克典の車がすでに停まっていた。
扉を開けると、克典が電話で誰かを叱っていた。納期がどうの手配がどうの、と声を荒らげている。歩は会釈だけして自分のデスクに着いた。
しばらくして克典が受話器を置いた。
「まったく、若いやつは段取りができん」
誰に言うでもなく漏らす叔父に、歩は「お疲れさまです」とだけ返した。克典はそれで気が済んだのか、机に積まれた書類の山をめくり始めた。
九時を回った頃、沙世が入ってきた。いつもの薄手のブラウスに、髪を一つに結っている。今日は化粧が控えめだった。
「おはよ」
「おはようございます」
沙世は歩に短く微笑んで、奥の流しに向かった。湯を沸かす音が始まる。
克典が顔を上げた。
「沙世、今日は遅いじゃないか」
「ごめんなさい、ちょっと寝坊しちゃって」
「めずらしいな」
「歳、かもね」
沙世が冗談で返した。克典は笑わなかった。
沙世が湯呑みを克典のデスクに運んだ。克典は受け取って、一口すすってから言った。
「そういえば、昨日、山下のとこ、寄ってきたんだがな」
「あら、そうだったの」
「玄関先まで娘っこが出てきてな、ちゃんと挨拶しよった」
克典が満足げに湯呑みを置いた。
「ああいうの見るとな、家ってのはこうじゃなきゃいかんと思うわ」
沙世が湯呑みを置きに来たトレイを、胸の前で持ったまま動かなくなった。ほんの一瞬だった。
「賑やかなのって、いいわよね」
「うちは静かすぎるな」
「そうねえ」
克典が笑いながら言った。冗談のつもりだった。沙世も笑った。笑えないのは歩だけだった。最近のこの流れは本当に勘弁してほしかった。
克典が書類のほうに顔を戻した。
「来年あたり、山下んとこは下の子も予定があるらしいぞ。あいつもなかなか頑張るわ」
「そう」
「お前、山下の嫁さんとは話したことあるか」
「商工会の集まりで、何度か」
「気のいい嫁さんだろう」
「そうね。優しい人ね。あなたは、ああいうおうちが羨ましいのかしら?」
声は穏やかだった。なんでもないことを聞くような調子だった。
克典の手が、書類をめくる途中で止まった。
「……羨ましいって話じゃないだろう。よその家の話だ」
「そうよね」
沙世が小さく笑った。
「ごめんなさい、変なこと聞いたわ」
克典は何か言いかけて、やめた。湯呑みをもう一口すすって、書類に目を戻した。
歩は画面に目を貼り付けたまま、キーボードに置いた指を動かせずにいた。
二人の間に流れた数秒の沈黙が、事務所の蛍光灯の音をやけに大きく聞こえさせた。
それから克典は十分ほどして立ち上がった。
「現場、回ってくる。昼は外で済ませる」
「いってらっしゃい」
沙世は顔を上げずに言った。克典はちらりと沙世を見て、それから歩のほうを向いた。
「歩、午前中に納品書まとめとけ。明日は事務所閉めるからな、今日中に片しとけ」
「はい」
扉が閉まり、軽トラのエンジン音が遠ざかった。
事務所に二人だけが残った。
ようやく重苦しい空気から解放された歩が黙々と仕事を片付けていると、しばらくして、沙世が口を開いた。
「歩」
「はい」
「明日、お昼、うちに食べに来ない?」
沙世がこちらを見ずに言った。
「あのひと、明日から二日、出張でしょ? 一人で食べるのも味気なくてね。歩もどうせ、休みの日はカップ麺かなんかでしょ」
「……まあ、だいたいそうですね」
実際のところ、休みの日は栞が何かしら作ってくれるから、そんなこともないのだが。
「でしょ。沙世さんがひもじい甥っ子のために腕をふるってあげるわよ」
沙世がようやく顔を上げて、歩に笑いかけた。茶目っ気のある、いつもの笑い方だった。けれどその目はどこか寂しそうで、歩はどうにもこの叔母を放ってはおけないのだった。


