六月に入って、雨の匂いが変わった。
朝、自転車で県道を走ると、田んぼの水面に灰色の空が映っている。まだ降ってはいないが、空気がじっとりと重い。アスファルトの上を走るタイヤが、湿気を含んだ路面を滑るように走る。
事務所に着くと、田中さんの軽トラがもう出た後だった。壁のホワイトボードをチェックすると、今日の日付の欄に克典の字で「午前中商工会。戻り昼過ぎ」と書かれていた。
帳簿を開いて入力を始めた。取引先ごとの請求額を確認し、先月との差異をチェックする。この作業にはもう慣れた。最初の頃は克典の殴り書きに苦戦したが、ひと月以上経てば癖もわかってくる。
十時過ぎに、玄関のガラス戸が開いた。
「おはよう、歩」
沙世だった。片手にスーパーの袋、もう片手に弁当箱の包みを持っている。今日は白いリネンのブラウスに、カーキのスカート。雨の予報なのに日傘は持っていない。
「おはようございます。今日は早いですね」
「冷蔵庫の中身が寂しかったから、買い物のついでに寄ったの。はい、お弁当」
デスクの端に弁当箱が置かれる。受け取ろうと手を伸ばすと、沙世の指が歩の手に重なった。一瞬――けれど確かに。柔らかな指先がすっと甲を撫でてから離れた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
沙世は何事もなかったように自分のデスクに向かった。歩は弁当箱を引き寄せて、手に残った感触をやり過ごした。
あの日から、二週間が経っていた。
事務所で起きたことについて、二人とも触れていない。沙世はいつも通り弁当を届けに来るし、歩もいつも通り仕事をする。ただ、確かに何か変わっていた。
以前から沙世は距離が近かったが、あの日以降、その近さに遠慮がなくなった。デスクの横を通るとき、肩にぽんと手を置く。お茶を渡すとき、指が歩の指にかぶさる。パソコンの画面を覗き込むとき、背中にやわらかいものが押し付けられる。どれも一瞬の接触だった。けれど確実に、以前にはなかった温度を感じるようになった。
歩はそのたびに動揺してしまうが、避けることはしなかった。嫌ではない、というか、正直に言えば少し期待していた。沙世の体温を感じると、胸の内側が和らぐのだ。
(俺、甘えてるよな……)
克典や田中とも良好にやれていると思うが、やはり沙世の存在が支えになっている自覚はあった。
沙世は自分のデスクに座って、経理ファイルを開いている。エアコンの音と、キーボードを叩く音と、沙世がページをめくる音。仕事中は彼女も私語を謹んでいるけれど、彼女がいる事務所は空気が柔らかかった。
昼になって、二人で弁当を広げた。今日は鮭の塩焼きと、ほうれん草のおひたしと、卵焼き。歩が卵焼きを一切れ口に入れると、甘みが舌の上を広がる。
沙世は自分の弁当の卵焼きを箸でつまみ上げた。
「本当はわたし、甘いのが好きなの。でも克典さんに出したら『砂糖入れすぎだ』って言われて、それっきり入れなくなったんだけどね」
「ああ、そういえば言ってましたね」
「でも、歩は甘いのも好きって言ったでしょう。だったらいいかなって、私たちのにだけ入れてるのよ」
沙世はそう言って、卵焼きを口に入れた。
「なんか特別って感じがして嬉しいですね」
「大げさねえ。卵焼きだけよ」
実際、言葉通りなのだろうけど、でもそういう些細なことが、最近の二人の間にはよくあった。
窓の外で、ぽつぽつと雨が降り始めた。天気予報の通りだ。
「ねえ歩。来週の水曜、克典さん一日いないんだけど、知ってる?」
「はい。取引先の挨拶回りで、隣の県まで行くって言ってました」
「田中さんも配達で朝から出るでしょう?」
「ですね」
「じゃあ、一日中一人で事務所番ね。大変だわ」
「まあ、慣れましたよ」
「そう。じゃあ、お昼は一緒に食べてあげるわ」
「いつも一緒に食べてるじゃないですか」
「そうだったかしら」
沙世が笑った。いつもの軽やかな笑い方だった。けれど歩は、「来週の水曜」という言葉が、ただの予定確認ではない予感がしながら、弁当箱の蓋をゆっくりと閉じた。
午後、克典が戻ってきた。
「おう、歩。午前中どうだった」
「特に問題なかったです。電話が二件、伝票の確認と納品日の問い合わせで、メモ置いてあります」
「ん、よしよし」
克典はデスクに座って、歩のメモに目を通した。それから電話を取って、取引先にかけ直し始めた。
それからしばらく作業に集中していたが、合間に、克典がふと沙世に話しかけた。
「沙世、今日の商工会でな、山下さんのとこの息子が帰ってきたって話が出てたぞ。あそこも大変だな、三十過ぎて仕事辞めて実家に転がり込むなんて」
「あら、そうなのね」
「まあ、うちにもいるけどな」
克典がちらりと歩を見て、笑った。冗談のつもりだろう。悪気はないはずだ。事実、克典の目には親しみの色があった。
「歩はまだましだな。ちゃんと働いてるし、文句も言わん。山下んとこの息子は家で寝てるだけだって。しょうがないやつってのはああいうのを言うんだ」
ましだな、と言われたところで、デリカシーの無さは擁護できないし、比較対象が「家で寝ているだけの男」では、褒められているのか慰められているのか判然としない。
歩は曖昧に笑って、パソコンの画面に向き直った。
沙世がお茶を淹れに席を立った。給湯室に向かう途中で歩のデスクの横を通るとき、克典からは見えないように、背中に手のひらがそっと触れて離れた。こういうことをされるから、つい彼女に甘えたくなってしまうのだろう。
五時に仕事が終わり、自転車で帰路についた。雨は午後のうちに上がっていて、アスファルトが濡れたまま光っている。田んぼの上に低い雲が垂れ込めて、空と水田の境目が曖昧だった。
家に着くと、垣根の向こうに栞の姿はなかった。洗濯物も出ていない。雨の予報だったから外干ししてないのだろう。
自転車を停めて、門を開けた。玄関の引き戸に手をかけたとき、隣の家の勝手口が開いた。
「歩くん」
栞が顔を出した。いつものエプロン姿で、手にはザルを持っている。
「おかえりなさい」
「ただいまです」
「きゅうりが採れすぎちゃって。よかったらもらってくれますか」
「いいんですか。ありがとうございます」
垣根越しに、ザルに盛られたきゅうりを受け取った。三本。曲がったのが混じっているけど新鮮だ。
「軽く塩で揉むといいですよ」
「やってみます」
「味噌をつけて食べても美味しいです」
「はい」
栞の声はいつも通りだった。穏やかで、過不足がなくて、押しつけがましさが一切ない。歩にとって、もはや日常の一幕だ。そこでふと、栞の旦那が帰ってきてるところを、まだ見てないなと思った。
「そういえば、旦那さんは、今月は帰ってくるんですか?」
よせばいいのに、つい聞いてしまった。なんで聞いてしまったのかは自分でもわからない。
栞の表情が、ほんの一瞬だけ止まった。それからきゅうりのザルを引き取って、エプロンの裾で手を拭いた。
「今月は帰れないみたいです。現場が延びたって」
「そうですか」
「ええ」
栞はそれ以上何も言わなかった。いつものように遠くを見つめている。
そんな彼女を見て、歩の手が動いていた。
考えるより先に、栞の肩に触れていた。
久方ぶりに触れた栞の肩はやわらかで、少し心配になるぐらい華奢だった。
指先が栞の体温を拾った瞬間、二人とも動きが止まった。栞が顔を上げて歩を見た。歩も栞を見ていた。栞は驚いてはいなかった。ただ、じっと歩を見つめている。
二秒か、三秒か。長い沈黙だった。
「……すみません」
歩は手を引いた。
「いえ」
結んでいた糸がほどけてしまったような、そんな声だった
「それじゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
栞は小さく会釈して、勝手口に消えた。歩はきゅうりを抱えて、自分の家に入った。
台所できゅうりを洗って、一本をそのまま齧った。みずみずしくて、少し青臭い。
残りの二本は栞に言われた通り、明日、塩で揉んで食べようと思った。
冷蔵庫を開けた。白い光が顔を照らす。
「これきりに」と栞は言った。あれから、二人は一度も触れていなかった。そういう約束だったし、互いの立場を考えれば、それが一番だと思った。
けれど、それを破ってしまった。なのに、栞は怒らなかった。嫌がりもしなかった。むしろ――。
歩は考えるのをやめて、冷蔵庫をしめた。
その晩は布団に入っても、目が冴えていた。雨上がりの湿気が部屋に籠もって、シーツが肌に貼りつく。指先に、まだ栞の肩の温度が残っている気がした。


