翌日、歩は約束の時間より少し早く家を出ていた。坂の上の遠山家に向かう道は、蝉の声がもう本格的に響いている。
今朝、栞と会ったときに、今日は沙世の家に行くということを伝えたが、それを聞いた彼女は特に何を言うわけでもなく「そうなんですね。いってらっしゃい」と見送ってくれた。
それはそうだ、彼女には沙世との関係は何も言っていないのだから。それだというのに、歩はなぜか今の気持ちを見透かされているような気がした。女の勘というのは恐ろしいものだ。
しばらくして到着した叔父夫婦の家。玄関のチャイムを押すと、インターホンから「はあい」と声が返ってくる。すぐに戸が開いて、沙世が顔を出した。
休みということもあり、化粧はほとんどしていない。髪も後ろで無造作にまとめているだけ。それでも素が美人だから華やかさがあった。
それに、家でくつろぐためのワンピースはゆったりとしていて、肩の曲線も出ているから、飾られていない生々しい色香を感じてしまう。
「あら、早かったのね」
「すみません、なんか早く目が覚めちゃって」
「ふふ、いいのよ。入って」
沙世はそう言って、歩を居間に通した。
居間はクーラーが効いていた。広い卓には、すでに料理の半分が並べられている。冷やした素麺、出汁巻き、夏野菜の天ぷら。そうめんつゆからは茗荷の香りが立っていた。
「叔父さんは?」
「朝早くに出たから、もう新幹線の中じゃないかしら」
それを聞いてほっとしてしまう。
沙世は台所に戻って、最後の小鉢を運んできた。ワンピースの裾の揺れ方が、今日はかろやかだった。
「さ、座って。歩もビール、飲むでしょ?」
「いや、まだ昼ですし」
「いいじゃない、休みなんだから」
沙世が冷蔵庫から瓶ビールを出してきた。グラスを二つ、卓に置く。沙世が瓶を傾けて歩のグラスに注ぎ、続けて自分のグラスにも注いだ。
「はーい、いつもお疲れさま」
「ども、お疲れさまです」
軽くグラスを合わせる。ガラスの軽く高い音が、ふたりきりの広い家の中で短く響いた。
最初のひと口を飲み込んだ沙世が、ふう、と息をついた。
「はぁ、美味しいわぁ」
「あー、ほんと、うまいですね」
「ほら、食べて食べて、揚げたてが美味しんだから」
「はい、いただきます」
言われて大皿に盛られた魚の天ぷらをつまんで口に入れると、ふっくらした白身の食感が口に広がる。
「ん、うまい。沙世さんて料理上手ですよね」
「そうでしょ、ほら、たくさん作ったから、遠慮しないでね」
そうして、ふたりで食べながら、話は当たり障りのないところから始まった。今年は梅雨が長かったとか、田中さんが先週ぎっくり腰になりかけたとか、商工会でやる催しの出欠がどうとか。沙世は普段通り、軽い口調でくすくす笑った。歩も合わせて笑った。
今日の沙世は軽やかだが、どこか、そう振る舞っているようにも見えた。
ビールが二本目に入った頃、沙世がふと、グラスの縁を指でなぞった。
「歩さ」
「はい」
「昨日、わたし、ちょっと感じ悪かったでしょ」
「……いや」
「いいのよ、わかってるから。あんなとこで、ねちっこく聞いて。歩には聞かせたくなかったわ、本当は」
歩は箸を置いた。沙世はグラスから目を上げない。
「克典さんね、悪い人じゃないのよ。わたしのことも大事にしてくれてる。それは間違いないの」
「ええ、そうですよね」
言いながら、沙世がもう一口ビールを飲んだ。
「けど、無意識に言われたことって、たまに、悪気があるよりずっと刺さるのよね」
沙世が淋しげに笑った。それが今の本当の顔なのだろう。だからこそ、見ているのが少し辛かった。
沙世はしばらく天井を見上げた。
「いつからかしらね。たぶん、わたしが三十を越えたあたりから、少しずつ。最初は、子どものこと。もうそろそろ、って言われ続けて、ある時からぱたっと言われなくなった。それが、なんていうか、楽になったような、寂しいような」
言葉を選びながら、沙世は続けた。
「あの人ね、わたしのこと『綺麗だ』って、結婚したころからずっと言ってくれるの。それは嬉しいのよ。嬉しいんだけど、最近ね、鏡を見るとね、あれって思っちゃうのよねぇ」
沙世がグラスを置いた。底にはうっすら水滴が滲んでいた。
「歩、ごめんね。せっかく来てもらったのに、こんな話して」
「沙世さんは、変わってないですよ。俺にとっては、昔も今も、優しくてお茶目な叔母さんですから」
歩は自分の声がいつもより低くなっているのに気づいた。沙世が目を上げて、歩を見た。
「歩も小さい頃から優しい子だったわね」
「俺は……そんな出来たもんじゃないです」
特に、今の状態は、とても人様に言えたものではないと自分でも分かっていた。
「あなたは、もっと自分に自信を持っていいと思うわ」
沙世はそう言って、また笑った。今度は目尻に薄く皺が寄った。歩は沙世の笑顔が綺麗だと思った。
*
食事を終えて、歩が皿を流しに運ぼうとすると、沙世が「いいから、座ってて」と止めた。台所に立つ沙世の背中を見ながら、歩はテーブルに頬杖をついた。クーラーの音と、水を流す音と、遠くで蝉の声がする。
沙世が皿を洗い終えて、麦茶のグラスを二つ持って戻ってくると、あえて歩の隣に座った。ふいに距離が近くなり、沙世の甘い香りが鼻を掠めた。
「ねえ歩」
「はい」
「子どものとき、覚えてる? ここの庭で、わたしがあんたに花火させてあげたこと」
「……ああ、なんとなく」
「あんた、線香花火が下手でね、すぐ落とすの。落としては泣きべそかいて」
「俺、泣いてました?」
「泣いてた、泣いてた」
沙世がくすくす笑った。歩も笑った。沙世の肩が、笑うたびに歩の肩に触れそうで触れない。麦茶のグラスの汗が、座卓に薄い輪を作っていた。
「あなたがちっちゃい頃って、ほんとに可愛かったのよ。自分の子みたいに思ってた時期もあった」
「……そうなんですか」
「そうよ。だから、こう、大人になって戻ってきた歩を見たときね、なんか変な感じだったのよ。あ、こんなに大きくなっちゃったんだって」
沙世が歩の方に顔を向けた。歩は逸らさなかった。
「歩」
「はい」
「ありがとね、来てくれて」
「いえ……」
「ほんとに。今日、ひとりだったら、わたし、たぶん、もう少し駄目だったかも」
歩は言葉に詰まった。何か言わなきゃと思った。気の利いたことを。けれど何も思いつかなくて。けれど何かを伝えたくて、歩は沙世の肩をそっと抱いた。
沙世が目を伏せた。睫毛の影が、頬に落ちていた。
「歩、こういうときは、そんな簡単に女に優しくしちゃだめよ」
「簡単じゃ、ないです」
言ってしまってから、自分の声が掠れているのに気づいた。沙世はそれ以上何も聞かなかった。
しばらく沈黙があった。クーラーの音と、蝉の声と、自分の呼吸の音が混ざっていた。
沙世がふっと顔を上げて、歩の頬に手を伸ばしかけた。指先が頬に触れる、そのほんの数センチ手前で、止まった。
「……だめね、わたし」
手が、空中で迷った。
「これ以上は、だめよね」
ささやくように、自分に言い聞かせるように。 歩は、その手を見ていた。沙世の指先が、わずかに震えているのに気づいてしまった。
手を引っ込めようとした沙世の手首を、歩の手が掴んでいた。自分でもいつ動いたのかわからなかった。
沙世が、息を呑んだ。
「……歩」
咎める声ではなかった。掠れた、迷子のような声だった。
歩は、何も言えなかった。
言えるようなことではなかった。沙世は叔母で、自分は甥で、それだけでもう十分におかしかった。そのうえ自分には栞がいる。月に一度しか帰ってこない夫の留守を狙って、隣家の妻と寝ている男が、今度は叔父の妻の手首を掴んでいる。
最低だと、頭ではちゃんとわかっていた。わかっていて、それでも、掴んだ手首は離せなかった。きっと、最初に沙世に触れてときから踏み外していたのだろう。
「すみません」
その一言が、歩から出てきた精一杯だった。
沙世が小さく首を横に振った。
「……あやまらないで」
歩が掴んでいた手首を、ほんの少しだけ、自分のほうへ引いた。考えてやったわけではなかった。沙世の身体が、わずかに歩のほうへ傾いた。抗わなかった。
ワンピース越しの肩が、歩の肩に触れた。麦茶のグラスのテーブルを濡らしていた。クーラーの音が、急にうるさくなった気がした。
沙世が、歩の肩に額を預ける。ほんの少しの重みを歩はしっかりと感じた。髪から香る匂いは甘さを増す。
沙世は何も言わなかった。歩も何も言わなかった。
言ってしまえば、嘘になる気がした。本気だ、とも、好きだ、とも、申し訳ない、とも、どれを口にしても、たぶん全部嘘になる。今ここにあるのはそのどれでもなくて、もっとぐちゃぐちゃとした、名前のつけようがないものだった。
沙世の手が、歩の胸のあたりで小さく動いた。シャツの胸元を、指先がそっと摘まんだ。そのすがるような沙世の手を、歩の手で包んだ。
沙世の指が、歩の指のあいだに、迷うようにゆっくり差し込まれた。
二人の手が組み合わさるのに、ずいぶん時間がかかった。沙世が、ほんの少しだけ、息を吐いた。
額を歩の肩に預けたまま、沙世がぽつりと言った。
「……栞さん」
歩の身体がこわばった。
「綺麗になってたわよ。ほんとうに」
もう一度、ほとんど独り言のように。
「はい……」
沙世が顔を、歩の肩から離した。けれど、結んだ手はそのままだった。
歩を見上げた沙世の目は、男を見つめる女の瞳だった。
「歩」
「……はい」
「わたしね、昔はこういうの、得意なほうだと思ってたのよ」
「沙世の指が、歩の指を、ほんの少しだけ強く握った。
「けど、いつの間にか下手になっちゃったみたい」
それは降参するような、言葉だった。
歩は、沙世の手を握り返した。
下手なのは自分も同じだった。栞の手もまんぞくに握っていられないのに、そんな男が、もうひとつの手を握ろうとしている。これがどれだけ酷いことかは知っていて、それでも、握った手はもう、解けなかった。
沙世が、もう一度、歩の肩に頭を預けた。
歩は空いているほうの手を、沙世の背中に回した。その手が、ワンピースの背中に触れた。
沙世の身体が、ほんの少し、震えた。歩は、なだめるように、ゆっくりと手のひらで背中を撫でた。沙世の口から吐息が漏れる。
昼下がりの居間に、蝉の声だけが遠くに聞こえた。
沙世の手が、組歩の手を、そっと持ち上げて自分の頬に押し当てた。手のひらに、女の頬の熱が、じわりと移った。
ふたりとも何も言わず、言葉のかわりに、歩の指が、沙世の頬を、ほんの少しだけなぞった。
沙世が、目を閉じた。
閉じた瞼の縁が、光っていた。

