珠代さんは俺と美津妃さんの様子に呆気に取られていた。
「お母さん……? なんで……どうして、雪彦さんと……」
これはあっかんでぇッ! 裸で母親と抱き合っているこの状況をどうやって言い訳すればいいんだ。
しかし、最悪の事態に凍りつく俺とは対照的に、美津妃さんは悪びれた様子もなく、にこやかな顔をして手なんか振っている始末。
「久しぶりねぇ珠代ちゃん、あなたが家出したって噂になってたから様子を見に来たのよぉ」
「珠代さん、これはそのっ……むぐッ!?」
なんとか弁解を試みようとしたところで、それを遮るように美津妃さんの腕が首に絡みつき豊満な胸元に抱き寄せられてしまう。
柔らかい! けど今はそれどころじゃない!
おっぱいから抜け出そうと必死にもがくものの、彼女の細腕はまるで万力のように固定されビクともしない。なにコレどうなってんだ。
もごもごと呻く俺を意に介さず、美津妃さんは、まるで自分のオモチャであることを主張するように珠代さんに見せつけている。
「ねぇ珠代ちゃん、お母さんねぇ、雪彦ちゃんのこと気に入っちゃったわぁ」
「えっ……」
えっ、ほんとに、なにを言っているんですか美津妃さん?
「だからねぇ、雪彦ちゃんはお母さんが貰ってもいいかしらぁ?」
なに言っちゃってんのぉォッ!?
「そんなこと……」
「いいわよねぇ? だって珠代ちゃんにはもう旦那様がいるんだものぉ」
「…………ッ!」
意地悪な笑みを浮かべる母親に、珠代さんは何も言い返せず手を握りしめると、踵を返して玄関の方へと出て行ってしまった。
「美津妃さん、なんてことを!」
ようやく腕の力が緩んで拘束から抜け出した俺は、美津妃さんのあんまりな言動を非難しようとしたが、やはり彼女は悪びれた様子もなく俺の背中を押してきた。
「ほらぁ、なにしてるのよぉ雪彦ちゃん、はやく珠代ちゃんを追いかけなさぁい」
「へっ?」
「ほら、はやくぅ」
「あっ、はいっ」
ちょっと理解が追いつかないけど、今はとにかく珠代さんを追うのが先決だ。美津妃さんに急き立てられながら、慌てて服を着なおして彼女が出て行った玄関へと向かう。
靴の踵を踏み潰しながら急いで玄関を開けると、オレンジ色の眩しい西日が差し込んで目が眩む。その先に夕日に溶ける珠代さんの黒い人影が見えた気がした。
けれど、眩しさに慣れた視界に珠代さんの姿はなく、そのかわりに小さな影がこちらを見つめて佇んでいた。
フサフサした尻尾に尖った耳、その綺麗な毛並みをしたキツネに俺は見覚えがあった。
キツネは逃げることもなく、その場から動こうとしなかった。いや、どうすればいいか分からず迷っているのかもしれない。
俺は彼女の名前を呼んだ。
「きなこ、おいで」
俺が名前を呼ぶと、彼女は小さく鳴いてからトコトコトと近寄ってくると、クゥッと喉を鳴らして目の前で立ち止まる。
俺はその場にしゃがみ込んで彼女の頭に手を伸ばした。指に伝わる柔らかな撫で心地は懐かしい気もするし、いつも感じていた気もする。
彼女がキツネの姿で俺の前に現れたのは、人間の珠代として、今の状況にどう向き合えばいいのか分からないからだろう。
それというのも、いつかは言わなければと分かっていながら、なにごともなく過ぎる日常に甘えて先延ばしにしていた俺のせいだ。
「珠代さん」
だから俺は彼女の名前を呼んだ。
名前を呼ばれたことに驚いたのか、キツネのつぶらな瞳が俺の顔をじっと見つめる。
そして、瞬きをした次の瞬間、俺の目の前には出会ったときと同じ姿をした珠代さんがいた。
化けるというのだから煙がドロンとするものを想像していたが、それは本当に瞬く間だった。
いつもの可愛い珠代さんは不安気な顔でこちらを見上げている。
「雪彦さん、どうして……」
「黙っててごめん、本当は知ってたんだ……珠代さんがキツネのきなこだって、でも、それを言えば珠代さんが出ていってしまうと思って、ずっと黙ってた……」
「わたしがキツネだと知ってたのに、家に住まわせていたんですか……? どうして?」
「それは、俺が……珠代さんを好きになってしまったから」
「でも、私はキツネなのに」
「珠代さんがキツネだと分かっていても、どうしようもなく好きになってしまったんだ」
こうして面と向かって女の子に告白するなんて、いったい何年ぶりだろうか。非常に気恥ずかしい思いをしながらも、ようやく言えたことに安堵する。
「雪彦さんは……おかしいです」
それは変態という意味でしょうか!?
「その、珠代さんは俺のこと、どう思ってるか聞かせてほしい」
「わたしっ、わたしは……キツネだから……それに、夫もいるし……だから、だから、人間の雪彦さんのこと……好きになっちゃダメだって……」
「珠代さんの正体がキツネだって構わない。珠代さんが俺を選んでくれたら、きっと全部何とかしてみせるから、だから、珠代さんの本当の気持ちを教えてくれ」
華奢な肩を手でつかまえて、珠代さんの目を見つめる。
「冷たい雪の中……私を助けてくれたあなたの温かい手が忘れられなくて……あなたのことが忘れられなくて……せめて恩返しの間だけでも一緒にられたらって……でも、本当は……私、ずっと雪彦さんの傍にいたい……」
縋るように胸に預けられる彼女の体を、俺はしっかりと抱きしめた。
「私も……雪彦さんを好きになってしまったから」
「じゃあ、一緒にいよう、ずっと、一緒にいよう」
「はいっ……はい……っ」
互いの背中に回された手がしっかりと二人の体を繋ぎ、重なった胸に温もりを伝える。
いま、俺は珠代さんと両想いになれたんだ。
あまりにも幸せで、この手を決して離すまいと決意したそのとき。
「二人の本心はしっかり聞かせてもらったわぁっ!」
スパンッ! と、勢いよく開かれた開かれた玄関から美津妃さんが登場した。
立聞きしてたのかよォッ!? 好きな娘の母親に告白シーンを見られるとか羞恥プレイが過ぎるわ!!
しかし、美津妃さんはやはり悪びれる素振りも見せず、自分の娘に愛情たっぷりのハグをする。
「意地悪してごめんねぇ、珠代ちゃんが雪彦ちゃんのことをどう想ってるのか確かめたかったのよぉ」
「おっ、お母さん」
美津妃さんに頰ずりされる珠代さんは、困ったような照れたような、なんとも言えない顔をしていたが、怒ってはいないようだった。きっと母親の破天荒には慣れているのだろう。
「きっと二人の恋路を邪魔しようとするお邪魔虫が出てくるだろうけどぉ、お母さんが応援してあげるわぁ、だから、これからは三人で仲良く暮らしましょうねぇ」
あっ、そういう流れになっちゃうわけですか?
こうして俺はキツネの若妻に加えて、その母親と一緒に暮らすことになった。